夜風が肌を撫でる北平の郊外、屋敷の一室に、静かな灯がともっていた。
李成桂はその家の戸を叩き、無言で招き入れられる。
迎えたのは張玉――
桂と同じ四十三歳。張の父にして、かつて桂の父・李子春と戦場を駆けた男の部下である。
若き日をモンゴルの風土で過ごし、混血も混在も当然という社会に揉まれながら育った男。
その気配は柔らかいが、目には戦火を潜り抜けた者の老練な思慮が宿っていた。
ただ無言で席を勧められ、桂は腰を下ろす。
話すべきことは、あまりにも明白だった。
「……張玉殿。あなたにしか話せぬことです」
張玉は、微かに頷く。
この男が軽い話を持ってくる人間でないことは、とうに知っている。
桂は短く息を吐いて言った。
「あなたの娘に……好かれ、困惑しています。私はあなたと同い年だ。これは……恋と呼ぶには、あまりにも歪だ」
張玉は、ふ、と口元をゆるめ、そして頭を下げた。
「申し訳ありません。娘が勝手をしております。いや、あれは……もともと勝手な女です」
張玉の声には、呆れと、それを通り越した諦めが滲んでいた。
「昔は“私は本当は男に生まれるはずだった”と、毎日のように言っていました。男装し名前を偽り、幼い頃の朱棣様を舎弟にしておりましたから……親として頭が痛い」
桂は目を伏せ、苦笑を浮かべる。
「……叱っても、効果はないと思います。あれは逆に、火に油を注ぐだけでしょう」
張玉はさらに続けた。
「結婚もしておるのに、また別の男に恋をしたと……。わがままにも限度がある。正直に申せば、腹も立っています」
少しの沈黙のあと、桂が言った。
「娘は、娘で苦しんでおります。だが、私が応じることはありません。私は……彼女には、死んでも手を出しません」
その一言に、張玉は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。」
桂は、わずかに視線を伏せた。張玉は続ける。
「しかしまぁ、なんの因果か……あなたの父君――李子春将軍――と、私の上官であったココ・テムル将軍は旧知でね。あなたの話を聞かされたことがありました。あの頃から、只者ではなかったと」
「恐縮です」
桂は苦笑した。
「私自身は、見ての通りの純然たる漢民族ですが……モンゴルで暮らすというのは、どこまでいっても“外の者”扱いでした。私も若い頃は、どれだけ戦果を挙げようが“漢人のくせに”と言われたものです。……しかし、あなたはもっと大変だったろう。高麗のように、血統の混ざりが少ない国なら、なおさらでしょう」
桂は静かに頷いた。
「単一であることは、強さにもなるが、異物を許さぬ鋭利な刃にもなりえる。」
その言葉に、張玉は深くうなずいた。
彼らは戦場を、異郷を、偏見を、そして“民族”というどうしようもない差別の重さを、身に刻み込まれて生きてきた。
そこに、言葉はもう要らなかった。
傍らの襖の陰から、ふと小さな視線がのぞいた。
まだ年端もいかない張の息子、張輔が、桂を見つめていた。
桂が目をやると、少年は咄嗟に袖に顔を隠した。
その様子を見て、張玉がため息を付く。
「この子はどうにも気が弱く……姉の気性の半分でもあれば、と思うのですがね」
桂は少年の姿を見ながら、やわらかく言った。
「芯の強い子というのは、静かに育つものです。内向的であることは、弱さではありません」
その言葉に、張輔が少し顔を覗かせた。
おそるおそるだったが、彼の中で何かがほぐれるような、そんな気配があった。
「……ほんとう?」
桂はうなずいた。
「私も、そうだったのだ」
張玉は小さく笑みを浮かべた。
「この子があなたのような武人に関心を持つのは、嬉しいことです」
そして、もう一度だけ深く頭を下げた
「娘のことで、ご迷惑をおかけしました。……それでも、あの子があなたを好きになるのは、どこか納得できてしまうのです」
桂は立ち上がり、扉の前で振り返った。
「……私が、もし彼女を守ることがあるとすれば、それは“男としての責任”ではなく、“人としての礼”です。その分別だけは、持っておきます」
張玉は、無言で胸に手を当てた。
それは敬意の証であり、戦場を知る者の誓いでもあった。
桂は、その敬意を受け取り、夜の静寂へと歩を進めていった。
――この静かな夜には、娘を持つ父と、娘に好かれた男とが、ただ誠実に、互いの立場を確認し合っただけの会話があった。
しかし、その沈黙には、誰よりも重い“信”があった。