第4話 夜更けの自省

三日。ただの三日間——されど、けいにとっては異様いような長さであった。

いつもなら、猫の足音が聞こえ、あまったるい声が近づき、ひかえ室の障子しょうじが勝手に開く。けれどこの三日、音ひとつない。桂は筆を持つ手を止め、何度も廊下ろうかを振り返っていた。

(……来ない)

書も進まない。食も細くなる。あれほど「厄介やっかいだ」と思っていたのに、今は——ただ、心配だった。

桂は普段、感情に波立つことなど滅多めったにない。淡々たんたん政務せいむをこなし、淡々と日々を過ごす。それが李成桂りせいけいという男の在り方であった。しかし、この三日間の心の動揺どうようは、彼自身にとっても理解し難いものだった。

(……そもそも、あの女は何者なのか。誰の許可きょかでここに?いや、そもそもどこに住んでいるのだ?)

思わず護衛ごえいに命じようとして、ふと戸惑とまどう。張という名もいつわりかもしれぬ、いや、最初から名乗ってすらいない。

(……探すか)

そう決めかけたその時——。

「……ニャア……」

聞き覚えのある、かすれた声。

「ニャア……風邪……ひいちゃったニャア……」

振り返れば、そこにいた。ほお紅潮こうちょうし、体の節々ふしぶしをこわばらせた猫が、ふらふらと立っていた。

「……お前……」

桂は椅子いすを倒しそうな勢いで立ち上がり、猫に駆け寄った。咄嗟とっさに抱きとめたその身体は、細く、熱かった。

「……よかった……無事、か……」

声がふるえていた。気づけば、目からなみだこぼれていた。桂——李成桂。いつも無表情で、感情などどこかに置いてきた男が、泣いていた。
彼は、無意識にだいぶ前に失った寵姫に猫娘を重ねていた。

猫は驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと笑った。

「……桂さまが……泣いてくれたニャア……。うれしいニャア……」

ふにゃっとくずれるように、彼に抱きついた。

「会いたかったニャア……すっごく……会いたかったニャン……」

桂はその髪を静かにで、何も言わず、ただ抱きしめた。

その時、桂の心に去来きょらいしたのは、長年抱えてきた疎外感そがいかんの記憶だった。

自らの意思で高麗こうらい帰順きじゅんしたものの、何年居住きょじゅうしようが外国人扱い。モンゴルにいた頃は違った。モンゴルはその点寛容かんようで、いろんな人種がいた。自称じしょうモンゴル人でモンゴル人、といった寛容さもあった。

しかし高麗は違った。血統けっとうで見られる現実。

(「やはり女真じょしん血筋ちすじか」)
(「モンゴルの犬だった者が」)

朝廷ちょうていでのささやき声。宴席えんせきでの微妙びみょうな距離感。功績こうせきを上げても常に付きまとう「しかし出自しゅつじが」というただし書き。桂はそれを周囲しゅういさとらせぬよう行動し、陰口かげぐちにもえてきた。

ある日、廊下で若い官僚かんりょうたちの会話を聞いてしまったことがある。

「李成桂殿はさすがですね」

「ああ、確かに有能ゆうのうだ。だが、やはり我々とは違う」

「血筋というものはかくせませんからね」

桂は足音を立てずに側を通り過ぎた。表情ひょうじょう一つ変えずに。

その積み重ねで彼の心はざされてしまったようだった。感情を表に出すことをけ、誰とも深く関わらず、ただ淡々と職務しょくむをこなす。それが李成桂という男の処世術しょせいじゅつとなっていた。

しかし、この小さな存在は違った。彼女は桂を「桂さま」と呼び、純粋じゅんすい好意こういを向けてくれる。出自など関係なく、ただ彼をしたってくれる。彼女の一言一言が、長年こおりついていた桂の心を静かにかしていく。

(……この感情は)

桂は急にわれに返ったかのように猫を離し、机に向かった。山積やまづみになった書類を手に取り、黙々もくもくと筆を走らせ始める。

「あ、桂さま〜、お仕事ニャア?」

猫は部屋のすみに座り込み、ぽつりぽつりと何かをつぶやいている。

「今日はおさかな美味おいしかったニャア。あ、でも桂さまの方が——」

静粛せいしゅくに」

桂は顔を上げることなく、淡々と作業を続けた。しかし、その手はかすかに震えていた。

(……認めよう)

桂は内心でにがい笑いをかべた。誤魔化ごまかしても仕方がない。彼は彼女を——好きになっていた。

年甲斐としがいもなく何だというのか。親子ほど年の離れた若い女性に何を感じているのだろうか。しかし、こんなに人を好きになったのは、もう十年ぶりだった。

心配で心配でたまらない。彼女がいない三日間、桂の心は千々ちぢに乱れていた。それは政務への集中をさまたげるほどに。

「桂さま〜、おなかすいたニャア♡」

「桂さま〜、ねむくなってきたニャア♡」

「桂さま〜、桂さまのにおいがするニャア♡」

桂は一つ一つの呟きに内心動揺しながらも、表面上は冷静れいせいよそおい続けた。しかし、葛藤かっとうは続いていた。

(……これで良いのか)

自分の地位ちい年齢ねんれい、そして彼女の素性すじょう。全てが曖昧あいまいで、全てが不確ふたしかだった。それでも、心の奥底おくそこ確信かくしんしていることがある。

彼女の存在が、長年の孤独こどくいやしてくれたということだ。

書類を片付け、本を手に取る。しかし、一度もページをめくることはなかった。

気づけば夜もけていた。猫の声がいつの間にか寝息ねいきに変わっている。振り返れば、猫は桂の膝元ひざもとで丸くなって眠っていた。

桂は静かに立ち上がり、毛布もうふを猫にかけた。それから再び椅子に戻り、本を開く。しかし、文字は頭に入らない。

(……これは、悪くない)

心が、おだやかだった。

猫の寝息が、夜の静けさに溶けていく。桂はそっと、を落とした。

——はじまりは、たわむれだったかもしれない。けれど、今はもう違っていた。

自分の感情の正体しょうたいを認めること。それは桂にとって、長年の孤独からの解放かいほうを意味していた。この小さな存在が自分の心にもたらした変化を、もはや否定ひていすることはできなかった。

夜は深く、桂の自省は続いていく。理性と感情の狭間はざまで、彼はひとり、静かに自らの心と向き合っていた。

薄氷はくひょうを踏むような心境の中で、誰かを愛することの甘美かんびさと苦悩くのうを感じていた。

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