三日。ただの三日間——されど、桂にとっては異様な長さであった。
いつもなら、猫の足音が聞こえ、甘ったるい声が近づき、控え室の障子が勝手に開く。けれどこの三日、音ひとつない。桂は筆を持つ手を止め、何度も廊下を振り返っていた。
(……来ない)
書も進まない。食も細くなる。あれほど「厄介だ」と思っていたのに、今は——ただ、心配だった。
桂は普段、感情に波立つことなど滅多にない。淡々と政務をこなし、淡々と日々を過ごす。それが李成桂という男の在り方であった。しかし、この三日間の心の動揺は、彼自身にとっても理解し難いものだった。
(……そもそも、あの女は何者なのか。誰の許可でここに?いや、そもそもどこに住んでいるのだ?)
思わず護衛に命じようとして、ふと戸惑う。張という名も偽りかもしれぬ、いや、最初から名乗ってすらいない。
(……探すか)
そう決めかけたその時——。
「……ニャア……」
聞き覚えのある、掠れた声。
「ニャア……風邪……ひいちゃったニャア……」
振り返れば、そこにいた。頬が紅潮し、体の節々をこわばらせた猫が、ふらふらと立っていた。
「……お前……」
桂は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、猫に駆け寄った。咄嗟に抱きとめたその身体は、細く、熱かった。
「……よかった……無事、か……」
声が震えていた。気づけば、目から涙が零れていた。桂——李成桂。いつも無表情で、感情などどこかに置いてきた男が、泣いていた。
彼は、無意識にだいぶ前に失った寵姫に猫娘を重ねていた。
猫は驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと笑った。
「……桂さまが……泣いてくれたニャア……。嬉しいニャア……」
ふにゃっと崩れるように、彼に抱きついた。
「会いたかったニャア……すっごく……会いたかったニャン……」
桂はその髪を静かに撫で、何も言わず、ただ抱きしめた。
その時、桂の心に去来したのは、長年抱えてきた疎外感の記憶だった。
自らの意思で高麗に帰順したものの、何年居住しようが外国人扱い。モンゴルにいた頃は違った。モンゴルはその点寛容で、いろんな人種がいた。自称モンゴル人でモンゴル人、といった寛容さもあった。
しかし高麗は違った。血統で見られる現実。
(「やはり女真の血筋か」)
(「モンゴルの犬だった者が」)
朝廷での囁き声。宴席での微妙な距離感。功績を上げても常に付きまとう「しかし出自が」という但し書き。桂はそれを周囲に悟らせぬよう行動し、陰口にも耐えてきた。
ある日、廊下で若い官僚たちの会話を聞いてしまったことがある。
「李成桂殿はさすがですね」
「ああ、確かに有能だ。だが、やはり我々とは違う」
「血筋というものは隠せませんからね」
桂は足音を立てずに側を通り過ぎた。表情一つ変えずに。
その積み重ねで彼の心は閉ざされてしまったようだった。感情を表に出すことを避け、誰とも深く関わらず、ただ淡々と職務をこなす。それが李成桂という男の処世術となっていた。
しかし、この小さな存在は違った。彼女は桂を「桂さま」と呼び、純粋な好意を向けてくれる。出自など関係なく、ただ彼を慕ってくれる。彼女の一言一言が、長年凍りついていた桂の心を静かに溶かしていく。
(……この感情は)
桂は急に我に返ったかのように猫を離し、机に向かった。山積みになった書類を手に取り、黙々と筆を走らせ始める。
「あ、桂さま〜、お仕事ニャア?」
猫は部屋の隅に座り込み、ぽつりぽつりと何かを呟いている。
「今日はお魚が美味しかったニャア。あ、でも桂さまの方が——」
「静粛に」
桂は顔を上げることなく、淡々と作業を続けた。しかし、その手は微かに震えていた。
(……認めよう)
桂は内心で苦い笑いを浮かべた。誤魔化しても仕方がない。彼は彼女を——好きになっていた。
年甲斐もなく何だというのか。親子ほど年の離れた若い女性に何を感じているのだろうか。しかし、こんなに人を好きになったのは、もう十年ぶりだった。
心配で心配でたまらない。彼女がいない三日間、桂の心は千々に乱れていた。それは政務への集中を妨げるほどに。
「桂さま〜、お腹すいたニャア♡」
「桂さま〜、眠くなってきたニャア♡」
「桂さま〜、桂さまの匂いがするニャア♡」
桂は一つ一つの呟きに内心動揺しながらも、表面上は冷静を装い続けた。しかし、葛藤は続いていた。
(……これで良いのか)
自分の地位、年齢、そして彼女の素性。全てが曖昧で、全てが不確かだった。それでも、心の奥底で確信していることがある。
彼女の存在が、長年の孤独を癒してくれたということだ。
書類を片付け、本を手に取る。しかし、一度もページを捲ることはなかった。
気づけば夜も更けていた。猫の声がいつの間にか寝息に変わっている。振り返れば、猫は桂の膝元で丸くなって眠っていた。
桂は静かに立ち上がり、毛布を猫にかけた。それから再び椅子に戻り、本を開く。しかし、文字は頭に入らない。
(……これは、悪くない)
心が、穏やかだった。
猫の寝息が、夜の静けさに溶けていく。桂はそっと、灯を落とした。
——はじまりは、戯れだったかもしれない。けれど、今はもう違っていた。
自分の感情の正体を認めること。それは桂にとって、長年の孤独からの解放を意味していた。この小さな存在が自分の心にもたらした変化を、もはや否定することはできなかった。
夜は深く、桂の自省は続いていく。理性と感情の狭間で、彼はひとり、静かに自らの心と向き合っていた。
薄氷を踏むような心境の中で、誰かを愛することの甘美さと苦悩を感じていた。