第8話 猫の導き

漢民族かんみんぞくのお前が辮髪べんぱつとは面白いな」と、高麗人こうらいじんの装束に身を包んだ桂が振り返りながら、笑みを浮かべて言った。その視線の先には、三つ編みを丁寧に結い上げた青年が立っている。

辮髪べんぱつ——それは異民族の髪型である。漢民族かんみんぞくでありながら、なぜ燕王はそのような髪型を好むのであろうか。

「これが私にとって一番かっこよいのです!」

燕王は、かつて桂がしていたのと同じ髪型を撫でながら、まるで少年のように無邪気に答えた。彼の髪は幼い頃の金髪から今では漆黒に変わったが、エキゾチックな緑の瞳は変わることなく、その色目人しきもくじんの血筋を物語っている。背はかなり高くなったというのに、それでも彼は昔と変わらず「桂兄上、桂兄上」と慕い続けているのである。

「相変わらずだな」

桂は苦笑を浮かべながら応えた。

「お前がそんなに私を尊敬する理由がわからん」

わからないのも当然であろう。桂自身、自分がそれほど大した人間だとは思っていないのだから。

「桂兄上は国家防衛の先駆者です。倭寇わこう、モンゴル、女真じょしんからの国境警備を長年担い、この国を守ってこられた」

燕王の言葉は真摯しんしであった。

「私が幼い頃、元に間諜として潜り込んでいた時、運よく桂兄上のもとで研鑽けんさんを積むことができました」

桂は複雑な表情を浮かべた。確かに彼は長年、僻地防衛に携わってきた。しかし、それは決して一人の力ではない。そんなことは当の本人が一番よく知っているはずなのに、この青年は頑なに桂を崇拝し続けている。

人間とは、かくも他者を理想化するものであろうか。

「お前は十分に成長した。もう私の後を追いかけ回す必要はない」

だが燕王は首を横に振った。

「いえ、私はまだまだ未熟者です。先日のモンゴルとの戦いでも……」

燕王の表情が暗くなった。朱能と共に出陣した燕王は、案の定モンゴル軍に捉えられ、大敗を喫しかけた。そして桂が現れて事態を変えたのだが、それもまた予想通りのことであった。

火里火真ほりほちんとの一騎打ちか」

桂が呟いた。

「はい。桂兄上が『殴り合いで勝負を付け、負けたほうが相手に従う』と敵に提案された時は、正直驚きました」

驚くのも当然であろう。なんとも野蛮な提案ではないか。しかし、それが功を奏したのだから、世の中は面白い。桂と敵将火里火真ほりほちんが激突した。泥と血にまみれながら、二人は殴り合った。そして最終的に桂が勝利を収め、火真を燕王の部下とすることに成功したのであった。

なんとも原始的で、しかし効果的な方法であった。

「火真は立派な男だ。モンゴル式の戦法をお前の軍に取り入れてくれている」

「はい、おかげで軍は急速に強くなりました。しかし……」

燕王は顔をしかめた。

「火真殿の指導は桂兄上と違って容赦が……」

「それでいい」

桂は断言した。

漢民族かんみんぞく式の軍隊では騎馬兵には太刀打ちできない。モンゴル式で鍛えてもらえ。甘ったれていては、いずれ本当に命を落とすぞ」

これは真実であった。現実は甘くない。理想と現実の間で、多くの者が命を落としてきた。燕王もまた、その現実を受け入れなければならない。

火真の厳しい指導に耐える日々は続いていた。汗と涙にまみれながら、燕王は必死に鍛錬を重ねている。それでも、まだまだ甘いのだ。

「桂兄上はなぜ、火真殿に私を支えるよう頼まれたのですか?」

「お前が若く、未熟だからだ」

桂は率直に答えた。まさに身も蓋もない答えであった。

「いつまでもお前の側にいられるわけではない。お前は自分の力で立ち上がる必要がある」

これもまた現実であった。

燕王は黙り込んだ。桂の言葉の意味を理解しているからこそ、反論することができなかった。

「それに、火真は私を主君と呼ぼうとしたが、私は断った。お前を鍛え、支えてほしいと頼んだのは、お前が明国の未来を背負う人間だからだ」

「私が……?」

「そうだ。お前は生まれながらにして王の素質を持っている。色目人しきもくじんの血が入っているからこそ、異なる文化を理解し、取り入れることができる。それは大きな武器になる」

燕王の緑の瞳が輝いた。桂からの信頼の言葉に、彼の心は震えていた。

「しかし、まだまだ甘い。火真の指導に耐え抜き、国境の要となってくれ。」

「はい!」

燕王は力強く答えた。

その時、桂の足元に一匹の猫が現れた。毛並の美しい三毛猫が、まるで二人の会話を聞いていたかのように、静かに座り込んでいる。
なんとも奇妙な光景であった。猫が人間の会話を理解するはずもないのに、その佇まいはまるで全てを知っているかのようであった。

「おや、こんなところに」

桂が猫を見下ろした。

猫は桂を見上げると、小さく鳴いた。まるで何かを伝えようとしているかのように。しかし、猫の言葉など人間にはわからない。わからないからこそ、想像が膨らむのだ。

「可愛い猫ちゃんですね」

燕王が微笑んだ。

「まるで人の言葉を理解しているよう」

桂は猫を見つめながら、ふと遠い目をした。いずれ「猫」の存在が、これから先の運命にどのような影響を与えるのか、この時の彼にはまだ知る由もなかった。

「さあ、訓練に戻るぞ」

桂が立ち上がった。

「火真殿が待っている」

「はい、桂兄上!」

燕王は三つ編みを直しながら、桂の後を追った。

猫はしばらく二人の後姿を見送った後、静かにその場を去っていった。

訓練場では、火真が厳しい表情で待っていた。それは桂とは真逆の容赦のない眼差しであった。

「遅いぞ、燕王!」

「申し訳ありません!」

燕王は深々と頭を下げた。

「言い訳は聞かん。今日は昨日より厳しく行くぞ」

燕王は覚悟を決めて頷いた。桂の言葉を胸に、彼は再び厳しい鍛錬に身を投じる。汗と涙にまみれながらも、彼の瞳には確かな決意が宿っていた。

桂は遠くからその様子を見守りながら、かつて自分も同じように厳しい鍛錬を積んだことを思い出していた。燕王もまた、自分の道を歩んでいくのであろう。

その時まで、自分にできることは全て教えてやりたい。しかし、最終的には、燕王自身が道を切り開かなければならないのだ。

夕日が訓練場を染める中、師弟、そして厳格な指導者の絆は、より一層深まっていくのであった。

人は皆、何かを求めて生きている。桂が求めたのは国の平穏であり、燕王が求めたのは師への追従ついじゅう、そして火真が求めたのは、強き者への忠誠であった。

それぞれが異なる道を歩みながらも、一つの目標に向かって歩んでいく。それこそが、人間の営みの美しさであろう。

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