第13話 離縁と号泣と猫の家出

春の陽がまぶしく降り注ぐ正殿せいでんに、似つかわしくない言葉が静かに放たれた。

「好きな人ができたニャ…もうあなたとは一緒にいられない」

言ったのは張――かつて燕王えんおうの妃として迎えられ、今は彼を拒絶し、名ばかりの寵姫ちょうきとなっている女だった。

「……な、なんだって?」

燕王は頬をひくつかせた。顔を覆いもせず、信じられぬものを見る目だった。

「だから離婚でいいニャ。私、もう、ここにはいられないニャ」

「待ってくれ!」

声が震えた。理性を繕おうとしたが、膝が勝手に崩れ落ちる。
張のひとみは淡く、冷たいまでに静かだった。

「本気ニャ」

それが、決定打だった。

「うわあああああああああん!!!」

燕王の号泣は、王府中に響き渡った。皇族の悲鳴とは思えぬ、幼子のような叫び。
侍従じじゅうたちは皆、凍りついた。
燕王は心から猫娘を愛していたのだ。

張は何も言わなかった。ただ、静かに宮を出た。

向かった先は、実家――張玉ちょうぎょくの邸である。

張玉邸に踏み入った姉、猫娘を見て、庭先で弟の張輔ちょうほが気づいた。十歳前後、おとなしく内向的な少年だった。
姉の姿を見た瞬間、弟は反射的に植え込みの陰に隠れた。

その姿を見て、張は冷たく言い捨てた。

「苛々するヤツ!私と性別を交換してほしいニャ。お前は女に生まれたほうが幸せだったニャ!」

言葉を聞いた瞬間、張輔は堪えきれず号泣した。

「フミュウウウウ!」

泣き出す弟の声に、奥から父が現れた。

「……また、お前は……」

「父上、離縁されてもいいニャ。私はこのまま、桂さまの元へ行くニャ」

そう言った張を見て、張玉の表情が静かにこわばった。

「ふざけるな」

低い声だった。怒鳴らず、荒れない。だが、その言葉には鉛のような怒気が沈んでいた。

「お前は……いったい何を言っているのか、わかっているのか」

張玉は縁側に腰を下ろし、頭を抱えた。力が抜けたのだ。
小さく、老いて見えた背中に、張は何も言えなかった。

弟・張輔はその背中を見て、何かを決めた。庭を抜け、駆けた。袖が風を裂く。彼が向かったのは、李成桂りせいけいの滞在する屋敷だった。

桂は門前に現れた少年の姿に眉を寄せた。

「どうした」

「姉上が……父上にひどいことを言って……お願いです、助けてください……!」

桂は黙ってしばし考えたが、立ち上がった。

「……わかった。行こう」

張輔はその背を追いながら、ふと思い出したように言った。

「……徐様にも、知らせておきます」

桂は止めなかった。張輔は再び走り、燕王府へ戻り、徐のもとを訪れた。

徐は少年の報告を無言で聞き終えたのち、ふっと目を細めて微笑んだ。

「お前は……聡明そうめいだな」

そっと彼の頭に手を乗せ、静かに撫でた。

「よく動いた。賢い子だ」

張輔は、頬を赤く、少し目を丸くし、そして、ようやく小さく笑った。

同じ頃、李成桂の屋敷を訪れていた者がいた。燕王だった。

「桂兄上……俺は、どうしたら……」

座り込む彼に、桂は一言だけ静かに告げた。

「猫娘が好きなのは私だ」

燕王は硬直した。

「……だが、安心しろ。私は高麗こうらいに戻る。信じてもらえるかわからんが、私は何もしていない」

燕王の目が泳ぐ。感情があふれるも、言葉を必死で探した。

「…もし俺が女だったら、俺だって桂兄上を選ぶよ……彼女を、兄上にお任せします」

燕王のその言葉に、桂は眉を少し動かした。

「お前は、私に正妻が二人おり、10年ほど前、そこに寵姫を迎えようとしたことを知っているな?」

「……はい」

「寵姫が一ヶ月も経たぬうち毒殺されたことも」

それには、何も答えられなかった。言葉を失ったまま、うなだれるしかなかった。

「……そういうことだ」

桂はそれだけ残し、立ち去った。

すべての人間が、愛によって壊れかけていた。

愛しすぎて壊れる者。誠実すぎて背を向ける者。怒って座り込む者。
ただ、静かに動く者。

春の陽が、やさしく差すなかで、物語はある“転換てんかん”を迎えつつあった。

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