春の陽がまぶしく降り注ぐ正殿に、似つかわしくない言葉が静かに放たれた。
「好きな人ができたニャ…もうあなたとは一緒にいられない」
言ったのは張――かつて燕王の妃として迎えられ、今は彼を拒絶し、名ばかりの寵姫となっている女だった。
「……な、なんだって?」
燕王は頬をひくつかせた。顔を覆いもせず、信じられぬものを見る目だった。
「だから離婚でいいニャ。私、もう、ここにはいられないニャ」
「待ってくれ!」
声が震えた。理性を繕おうとしたが、膝が勝手に崩れ落ちる。
張の瞳は淡く、冷たいまでに静かだった。
「本気ニャ」
それが、決定打だった。
「うわあああああああああん!!!」
燕王の号泣は、王府中に響き渡った。皇族の悲鳴とは思えぬ、幼子のような叫び。
侍従たちは皆、凍りついた。
燕王は心から猫娘を愛していたのだ。
張は何も言わなかった。ただ、静かに宮を出た。
向かった先は、実家――張玉の邸である。
張玉邸に踏み入った姉、猫娘を見て、庭先で弟の張輔が気づいた。十歳前後、おとなしく内向的な少年だった。
姉の姿を見た瞬間、弟は反射的に植え込みの陰に隠れた。
その姿を見て、張は冷たく言い捨てた。
「苛々するヤツ!私と性別を交換してほしいニャ。お前は女に生まれたほうが幸せだったニャ!」
言葉を聞いた瞬間、張輔は堪えきれず号泣した。
「フミュウウウウ!」
泣き出す弟の声に、奥から父が現れた。
「……また、お前は……」
「父上、離縁されてもいいニャ。私はこのまま、桂さまの元へ行くニャ」
そう言った張を見て、張玉の表情が静かにこわばった。
「ふざけるな」
低い声だった。怒鳴らず、荒れない。だが、その言葉には鉛のような怒気が沈んでいた。
「お前は……いったい何を言っているのか、わかっているのか」
張玉は縁側に腰を下ろし、頭を抱えた。力が抜けたのだ。
小さく、老いて見えた背中に、張は何も言えなかった。
弟・張輔はその背中を見て、何かを決めた。庭を抜け、駆けた。袖が風を裂く。彼が向かったのは、李成桂の滞在する屋敷だった。
桂は門前に現れた少年の姿に眉を寄せた。
「どうした」
「姉上が……父上にひどいことを言って……お願いです、助けてください……!」
桂は黙ってしばし考えたが、立ち上がった。
「……わかった。行こう」
張輔はその背を追いながら、ふと思い出したように言った。
「……徐様にも、知らせておきます」
桂は止めなかった。張輔は再び走り、燕王府へ戻り、徐のもとを訪れた。
徐は少年の報告を無言で聞き終えたのち、ふっと目を細めて微笑んだ。
「お前は……聡明だな」
そっと彼の頭に手を乗せ、静かに撫でた。
「よく動いた。賢い子だ」
張輔は、頬を赤く、少し目を丸くし、そして、ようやく小さく笑った。
同じ頃、李成桂の屋敷を訪れていた者がいた。燕王だった。
「桂兄上……俺は、どうしたら……」
座り込む彼に、桂は一言だけ静かに告げた。
「猫娘が好きなのは私だ」
燕王は硬直した。
「……だが、安心しろ。私は高麗に戻る。信じてもらえるかわからんが、私は何もしていない」
燕王の目が泳ぐ。感情があふれるも、言葉を必死で探した。
「…もし俺が女だったら、俺だって桂兄上を選ぶよ……彼女を、兄上にお任せします」
燕王のその言葉に、桂は眉を少し動かした。
「お前は、私に正妻が二人おり、10年ほど前、そこに寵姫を迎えようとしたことを知っているな?」
「……はい」
「寵姫が一ヶ月も経たぬうち毒殺されたことも」
それには、何も答えられなかった。言葉を失ったまま、うなだれるしかなかった。
「……そういうことだ」
桂はそれだけ残し、立ち去った。
すべての人間が、愛によって壊れかけていた。
愛しすぎて壊れる者。誠実すぎて背を向ける者。怒って座り込む者。
ただ、静かに動く者。
春の陽が、やさしく差すなかで、物語はある“転換”を迎えつつあった。