宮廷に潜み込んだ二人の少年は、薄暗い軒下で息を殺していた。
イシハと馬三宝は、女真族と色目人の血を引く顔立ちを宮女の白粉で塗り固め、絹の衣をまとって変装を凝らしていた。馬三宝の美しい顔立ちは、白粉を塗らずとも宮女と見紛うほどであった。
夕刻、張が身支度を整えて現れた。普段の質素な装いとは打って変わり、鮮やかな紅の衣に身を包み、髪には金の簪を挿している。その姿は、まるで宮廷の奥深くにいる高貴な女性のようであった。
「あの方は桂様の屋敷へ向かわれる」
イシハが小声で呟く。張の足取りは軽やかだが、どこか緊張の色を隠し切れずにいる。
桂の屋敷の門前で、張は立ち尽くしていた。門を叩くでもなく、ただ佇んでいるその様子は、まるで迷子の子猫のようであった。
「桂さま、開けて〜」
その声は夕闇に溶けて、哀切極まりない響きを帯びていた。しかし応答はない。重い沈黙だけが、二人の間に横たわっている。
「ニャアアアアア!」
長く、悲痛な声が夕闇に響く。それは人の声なのか、それとも本当に猫の鳴き声なのか、判然としない。張の声は次第に涙声になっていく。愛する人の前で、彼女はただ一匹の捨て猫のように鳴くしかないのだ。
桂は屋敷の奥で、その声を聞いていた。しかし扉を開けようとはしない。それどころか、両手で耳を塞いでいた。愛する女の嘆きを聞くことほど、男にとって残酷なことがあろうか。彼女が可哀想なのと、本当は愛しているのとで、心が引き裂かれそうになる。しかし彼は歯を食いしばって耐えた。
だが、彼が受け入れたら、彼女は確実に不幸になる。桂の脳裏には、以前の寵姫の面影が浮かんでいた。美しい女だった。彼より五歳年上で品があり、謙虚で、子ができた際の喜びようはすごかった。あの時の彼女の笑顔は、まるで世界中の幸福を一身に集めたかのようだった。しかし、運命は残酷だった。一ヶ月も立たぬ間に毒を盛られ、苦悶の中で死んでいった。最期に彼女が呟いた「ありがとう」という言葉が、今も桂の耳に焼き付いている。
それ以来、女性とは一切、縁を持たずに生きてきた。愛することは、相手を死地に追いやることだと知ったからだ。
それを思い出すと、とてもではないが、彼女の愛に応えようと思えなかったのだ。愛しているからこそ、遠ざけなければならない。この世で最も残酷な愛の形を、桂は選ばざるを得なかった。
冷たい沈黙が続く。張は再び「桂さま、開けて〜」と懇願し、「ニャアアアアア!」と泣いた。今度は更に長く、絶望的に。その声は、愛する人に拒絶された女の、魂の叫びそのものだった。
物陰に隠れた二人の少年は、この光景を見つめながら囁き合っていた。
「あーこれ真っ黒だよぉ」
「いや、一線は越えてないよぉ。でも、心はあっちにイッてしまってるよぉ」
イシハの声には、大人びた諦念が混じっていた。まだ若い身でありながら、宮廷の複雑な人間関係を見抜く眼力を持っていた。馬三宝は美しい顔に困惑の色を浮かべながら頷いた。
「張様があんなに健気に待っているのに、桂様は扉も開けない」
「燕王の寵姫だからな。迂闊に手を出せば、命がいくつあっても足りない」
そう言いながらも、二人の目には涙が滲んでいた。張の「ニャアアアアア!」という声があまりにも切なく、桂の苦悩もまた手に取るように分かるからだ。イシハは袖で涙を拭いながら、馬三宝の肩に手を置いた。馬三宝もまた、美しい顔を歪めて泣いていた。
「こんなに愛し合っているのに、どうして一緒になれないんだろう」
馬三宝の呟きが、夜風に消えていく。
二人は張を尻目に、桂の部屋へと向かった。もう見ていられなかった。
桂の部屋の扉を叩く音が響く。
「どなたですか」
「宮女でございます。お伝えしたいことがございます」
扉が開かれると、桂の鋭い眼差しが二人を射抜いた。
「張様が泣いておられます」
イシハが演技を込めて言った。
桂は短く息を吐く。「私にどうしろというのだ。燕王の寵姫だ。彼に任せてくれ」
その時、遠くから「嫌ニャアアアアア〜」という泣き声が聞こえてきた。張の声であった。
「四人で話しましょう」
馬三宝が提案した。
桂の眼光が鋭くなった。
「お前たち、宦官ではないか」
二人は驚いて身を強ばらせた。
「なぜなら、イシハよ。お前は女真族だ。そして私は、お前の父を知っている」
イシハの顔から血の気が引いた。
「息子が病気で男性機能を失ったので、明に宦官として仕えさせた。お前の父から、直接聞いた話だ。明は勢いがあるので、それがよいと話し合ったことがあった」
「お前の父を私は知っている。彼の名はムクラ…」
「・・・・・」
イシハは言葉を失った。
バレたことを悟った二人は、一瞬開き直ろうとした。しかし桂の厳しい表情を見て、怒られることを察し、泣き出してしまった。
「バレちゃったよぉ」
「徐様に怒られちゃうよお」
二人の宦官は、もはや子供のように泣きじゃくっていた。
桂は深くため息をついた。
「徐に面会を申し出たいと伝えよ」
宦官は、桂の願いを宮廷の主である徐に申し出た。
桂は再び深く息を吐くと、二人の宦官に向かって言った。
「猫娘を宮廷に送り届けよ」
その声には、諦めにも似た決意が込められていた。門前でまだ「ニャアアアアア!」と泣き続ける張を、もはや自分の手で救うことはできない。それならば、せめて宮廷という場所で、彼女が安らぎを得られるかもしれない。
やがて、二人の宦官が張を連れて立ち去る足音が聞こえた。そして、あれほど夜を震わせていた猫の鳴き声が、次第に遠ざかっていく。
「ニャアアアアア!」
「桂さま〜!」
張の声は遠くなりながらも、まだ桂の名を呼び続けていた。しかし、やがてその声も夜の闇に吸い込まれ、静寂が戻った。
桂は塞いでいた両手を耳から離した。もう、あの切ない鳴き声は聞こえない。深く、長いため息が漏れる。それは安堵なのか、悲しみなのか、彼自身にも分からなかった。
ただ、彼女の声が聞こえなくなった今、彼はようやく緊張を解くことができた。愛する人を遠ざけることの苦痛から、一時的にせよ解放されたのだ。
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