第9話 猫の慟哭

宮廷にひそんだ二人の少年は、薄暗い軒下のきしたで息を殺していた。

イシハと馬三宝は、女真族じょしんぞく色目人しきもくじんの血を引く顔立ちを宮女きゅうじょの白粉で塗り固め、絹の衣をまとって変装へんそうを凝らしていた。馬三宝の美しい顔立ちは、白粉を塗らずとも宮女きゅうじょ見紛みまごうほどであった。

夕刻ゆうこく、張が身支度みじたくを整えて現れた。普段の質素な装いとは打って変わり、あざやかな紅の衣に身を包み、髪には金のかんざしを挿している。その姿は、まるで宮廷の奥深くにいる高貴な女性のようであった。

「あの方は桂様の屋敷へ向かわれる」

イシハが小声でつぶやく。張の足取りは軽やかだが、どこか緊張の色を隠し切れずにいる。

桂の屋敷の門前で、張はくしていた。門を叩くでもなく、ただたたずんでいるその様子は、まるで迷子の子猫のようであった。

「桂さま、開けて〜」

その声は夕闇に溶けて、哀切極あいせつきわまりない響きを帯びていた。しかし応答はない。重い沈黙だけが、二人の間に横たわっている。

「ニャアアアアア!」

長く、悲痛ひつうな声が夕闇に響く。それは人の声なのか、それとも本当に猫の鳴き声なのか、判然はんぜんとしない。張の声は次第に涙声になっていく。愛する人の前で、彼女はただ一匹の捨て猫のように鳴くしかないのだ。

桂は屋敷の奥で、その声を聞いていた。しかし扉を開けようとはしない。それどころか、両手で耳を塞いでいた。愛する女のなげきを聞くことほど、男にとって残酷なことがあろうか。彼女が可哀想なのと、本当は愛しているのとで、心が引き裂かれそうになる。しかし彼は歯をいしばって耐えた。

だが、彼が受け入れたら、彼女は確実に不幸になる。桂の脳裏のうりには、以前の寵姫ちょうき面影おもかげが浮かんでいた。美しい女だった。彼より五歳年上で品があり、謙虚で、子ができた際の喜びようはすごかった。あの時の彼女の笑顔は、まるで世界中の幸福を一身に集めたかのようだった。しかし、運命は残酷だった。一ヶ月いっかげつたぬ間に毒を盛られ、苦悶くもんの中で死んでいった。最期さいごに彼女がつぶやいた「ありがとう」という言葉が、今も桂の耳に焼き付いている。

それ以来、女性とは一切、縁を持たずに生きてきた。愛することは、相手を死地しちることだと知ったからだ。

それを思い出すと、とてもではないが、彼女の愛にこたえようと思えなかったのだ。愛しているからこそ、とおざけなければならない。この世で最も残酷な愛の形を、桂は選ばざるを得なかった。

冷たい沈黙が続く。張は再び「桂さま、開けて〜」と懇願こんがんし、「ニャアアアアア!」と泣いた。今度は更に長く、絶望的に。その声は、愛する人に拒絶された女の、魂の叫びそのものだった。

物陰に隠れた二人の少年は、この光景を見つめながらささやき合っていた。

「あーこれ真っ黒だよぉ」

「いや、一線いっせんは越えてないよぉ。でも、心はあっちにイッてしまってるよぉ」

イシハの声には、大人おとなびた諦念ていねんが混じっていた。まだ若い身でありながら、宮廷の複雑な人間関係を見抜みぬ眼力がんりきを持っていた。馬三宝は美しい顔に困惑こんわくの色を浮かべながら頷いた。

「張様があんなに健気けなげに待っているのに、桂様は扉も開けない」

燕王えんおう寵姫ちょうきだからな。迂闊うかつに手を出せば、命がいくつあっても足りない」

そう言いながらも、二人の目には涙がにじんでいた。張の「ニャアアアアア!」という声があまりにも切なく、桂の苦悩くのうもまた手に取るように分かるからだ。イシハは袖で涙をぬぐいながら、馬三宝の肩に手を置いた。馬三宝もまた、美しい顔をゆがめて泣いていた。

「こんなに愛し合っているのに、どうして一緒になれないんだろう」

馬三宝のつぶやきが、夜風に消えていく。

二人は張を尻目しりめに、桂の部屋へと向かった。もう見ていられなかった。

桂の部屋の扉を叩く音が響く。

「どなたですか」

宮女きゅうじょでございます。お伝えしたいことがございます」

扉がひらかれると、桂のするど眼差まなざしが二人を射抜いぬいた。

「張様が泣いておられます」

イシハが演技を込めて言った。

桂は短く息を吐く。「私にどうしろというのだ。燕王えんおう寵姫ちょうきだ。彼に任せてくれ」

その時、遠くから「嫌ニャアアアアア〜」という泣き声が聞こえてきた。張の声であった。

「四人で話しましょう」

馬三宝が提案した。

桂の眼光がんこうするどくなった。

「お前たち、宦官かんがんではないか」

二人は驚いて身をこわばらせた。

「なぜなら、イシハよ。お前は女真族じょしんぞくだ。そして私は、お前の父を知っている」

イシハの顔から血の気ちけが引いた。

「息子が病気で男性機能だんせいきのうを失ったので、明に宦官かんがんとしてつかえさせた。お前の父から、直接聞いた話だ。明は勢いがあるので、それがよいと話し合ったことがあった」

「お前の父を私は知っている。彼の名はムクラ…」

「・・・・・」

イシハは言葉を失った。

バレたことを悟った二人は、一瞬ひらなおろうとした。しかし桂の厳しい表情を見て、怒られることをさっし、泣き出してしまった。

「バレちゃったよぉ」

「徐様に怒られちゃうよお」

二人の宦官かんがんは、もはや子供のように泣きじゃくっていた。

桂は深くため息をついた。

「徐に面会めんかいもうたいと伝えよ」

宦官かんがんは、桂の願いを宮廷の主である徐にもうた。

桂は再び深く息を吐くと、二人の宦官かんがんに向かって言った。

猫娘ねこむすめを宮廷におくとどけよ」

その声には、あきらめにも似た決意けついが込められていた。門前でまだ「ニャアアアアア!」と泣き続ける張を、もはや自分の手で救うことはできない。それならば、せめて宮廷という場所で、彼女がやすらぎをられるかもしれない。

やがて、二人の宦官かんがんが張を連れてる足音が聞こえた。そして、あれほど夜をふるわせていた猫の鳴き声が、次第にとおざかっていく。

「ニャアアアアア!」

「桂さま〜!」

張の声は遠くなりながらも、まだ桂の名を呼び続けていた。しかし、やがてその声も夜の闇に吸い込まれ、静寂せいじゃくが戻った。

桂は塞いでいた両手を耳から離した。もう、あの切ない鳴き声は聞こえない。深く、長いため息が漏れる。それは安堵なのか、悲しみなのか、彼自身にも分からなかった。

ただ、彼女の声が聞こえなくなった今、彼はようやく緊張を解くことができた。愛する人をとおざけることの苦痛くつうから、一時的いちじてきにせよ解放かいほうされたのだ。

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