第5話 朝の別れ

夜明よあけの空気はつめたく、鳥のさえずりが静寂せいじゃくを破って響いていた。
障子しょうじに映る光は、まだ薄く、世界がゆっくりと目覚めざめを迎えようとしている時刻である。

けいは意識を取り戻した。枕辺まくらべに置かれた書物は開かれたまま、昨夜の読書の痕跡こんせきを残している。

ふと視線をめぐらせると、そこに一つの小さな影があった。薄い夜具にくるまり、猫のように丸くなって眠る女の姿である。みだれた髪、紅潮こうちょうしたほお、しかしその寝息ねいきおだやかであった。

何事もない夜であった。ただ静かに語り合い、いつしか眠りに落ちただけの、そんな夜であった。しかし桂の胸中きょうちゅうには、言い知れぬぬくもりが宿っていた。共に朝を迎えるということ——それだけで心が満たされる不思議ふしぎがあった。

この女の前でだけは、桂はよろいを脱ぐことができた。いつもは鉄面皮てつめんぴで通している男が、ちょう屈託くったくのない笑顔の前では、ふと表情ひょうじょうゆるめてしまう。
彼女の猫じみた仕草しぐさ無邪気むじゃきな言葉遣い、そして時折見せる意外いがい聡明そうめいさ——すべてが桂の心をとらえて離さなかった。人前では決して見せることのない、やわらかな表情を浮かべながら、桂は彼女の髪をでていた。

そっと手を伸ばし、女の髪に触れながら、桂の脳裏のうりに一つの想念そうねんよぎった。

この女をきさきに迎えることはできぬものか、と。

それは初めてき上がった所有欲しょゆうよくであり、愛情あいじょう証左しょうさでもあった。だが現実は冷酷れいこくにその夢想むそうを打ち砕く。既に正室せいしつを二人かかえる身である。
政略せいりゃく産物さんぶつとして迎えた女たちであったが、今や家中かちゅう修羅場しゅらばと化している。日々のいさかい、き込まれる子息しそくたち。そこへさらに若い女を迎え入れたなら、この猫のような女はどのような運命うんめい辿たどることになるか。

不幸ふこうになるのは必定ひつじょうであった。

そう思いながら大きく息を吐いた時、張が目を覚ました。

「おはようニャア、桂さま」

眠気ねむけを含んだ声であったが、そのひとみだけはんで真っ直ぐであった。

「好きになっちゃったニャア、桂さまのこと」

桂の胸がめ付けられる。言ってやりたかった——私もだ、と。しかしそれを口にしてはならなかった。

軍人ぐんじんの妻になどなるものではない」

桂は低い声で言った。

戦場せんじょうでいつ死ぬとも知れぬ身だ。夜に出て朝に帰る保証ほしょうもない。私のような男のそばでは、お前はなみだれることになろう」

張はしばらくもくしていたが、やがて夜具をまとめて立ち上がった。

「でも好きになったニャア。泣いてもいいニャア、好きだから!」

桂はそれでも張を帰した。その後ろ姿を見送りながら、足が動かなかった。心中しんちゅうでは必死ひっしに自分をせいしていた。引き止めたい、きしめたい、すべてを捨ててでもこの女と共にいたい——そんな衝動しょうどうが胸の奥で渦巻うずまいていた。

だが桂は、そうした感情を表に出すことを自らにゆるさなかった。それが、この男の生き方であった。

数刻後のことである。

「ニャアアアアア……ッ!」

外から聞こえてきたのは、張の慟哭どうこくであった。叫びとも泣き声ともつかぬ、猫の鳴き声のような声であった。桂の心臓しんぞう収縮しゅうしゅくする。

すまぬ——それしか言えなかった。

その日のうちに、桂はひそかに調査ちょうさを命じた。あの女の素性すじょうを探れ、と。静かに、誰にもさとられぬように、と。

二日後、報告ほうこくが届いた。

燕王えんおう寵姫ちょうき、張氏』

桂は報告書ほうこくしょ黙読もくどくし、深く、深く溜息ためいきをついた。

よりによってあの男の、と。

恋はいっそうとおいものとなった。

燕王えんおう——朱棣しゅていに会ったのは十年以上も昔のことである。あの頃の彼はおさなく、今とは性格せいかくも全く違っていた。
複雑ふくざつ出自しゅつじゆえに心を病み、自尊心じそんしんも地に落ち、常に人の顔色かおいろうかがっている子供であった。そのおさない朱棣に愛情あいじょうを注いだのは桂であり、彼との信頼関係しんらいかんけいこそが、朱棣の心のささえとなっていたのである。

何でも話せる相手——それが自分であった。もしその自分が彼を裏切うらぎったなら、彼の心はどのようにゆがんでしまうことか。

桂はそう考えた。そして、ただ溜息しか出てこなかった。

愛は時として、このように絶望的ぜつぼうてきな形で人をおとずれるものである。手に入れることのできぬもの、手に入れてはならぬもの——そのようなものに心をうばわれる時、人はただ溜息をつくより他にないのであった。

桂は書斎しょさいの窓辺に立ち、はるか彼方を見つめた。そこには、手の届かぬ愛への憧憬どうけいと、諦観ていかん混在こんざいしていた。

長年こおりついていた心をかしてくれた小さな存在。しかし、その存在は他の誰かのもので、決して自分のものにはなり得ないのだ。

桂は静かに目を閉じ、彼の静かな嘆息たんそくが夜の闇に溶けていった。

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