夜明けの空気は冷たく、鳥の囀りが静寂を破って響いていた。
障子に映る光は、まだ薄く、世界がゆっくりと目覚めを迎えようとしている時刻である。
桂は意識を取り戻した。枕辺に置かれた書物は開かれたまま、昨夜の読書の痕跡を残している。
ふと視線を巡らせると、そこに一つの小さな影があった。薄い夜具にくるまり、猫のように丸くなって眠る女の姿である。乱れた髪、紅潮した頬、しかしその寝息は穏やかであった。
何事もない夜であった。ただ静かに語り合い、いつしか眠りに落ちただけの、そんな夜であった。しかし桂の胸中には、言い知れぬ温もりが宿っていた。共に朝を迎えるということ——それだけで心が満たされる不思議があった。
この女の前でだけは、桂は鎧を脱ぐことができた。いつもは鉄面皮で通している男が、張の屈託のない笑顔の前では、ふと表情を緩めてしまう。
彼女の猫じみた仕草、無邪気な言葉遣い、そして時折見せる意外な聡明さ——すべてが桂の心を捉えて離さなかった。人前では決して見せることのない、柔らかな表情を浮かべながら、桂は彼女の髪を撫でていた。
そっと手を伸ばし、女の髪に触れながら、桂の脳裏に一つの想念が過った。
この女を妃に迎えることはできぬものか、と。
それは初めて湧き上がった所有欲であり、愛情の証左でもあった。だが現実は冷酷にその夢想を打ち砕く。既に正室を二人抱える身である。
政略の産物として迎えた女たちであったが、今や家中は修羅場と化している。日々の諍い、巻き込まれる子息たち。そこへさらに若い女を迎え入れたなら、この猫のような女はどのような運命を辿ることになるか。
不幸になるのは必定であった。
そう思いながら大きく息を吐いた時、張が目を覚ました。
「おはようニャア、桂さま」
眠気を含んだ声であったが、その瞳だけは澄んで真っ直ぐであった。
「好きになっちゃったニャア、桂さまのこと」
桂の胸が締め付けられる。言ってやりたかった——私もだ、と。しかしそれを口にしてはならなかった。
「軍人の妻になどなるものではない」
桂は低い声で言った。
「戦場でいつ死ぬとも知れぬ身だ。夜に出て朝に帰る保証もない。私のような男の傍では、お前は涙に暮れることになろう」
張はしばらく黙していたが、やがて夜具をまとめて立ち上がった。
「でも好きになったニャア。泣いてもいいニャア、好きだから!」
桂はそれでも張を帰した。その後ろ姿を見送りながら、足が動かなかった。心中では必死に自分を制していた。引き止めたい、抱きしめたい、すべてを捨ててでもこの女と共にいたい——そんな衝動が胸の奥で渦巻いていた。
だが桂は、そうした感情を表に出すことを自らに許さなかった。それが、この男の生き方であった。
数刻後のことである。
「ニャアアアアア……ッ!」
外から聞こえてきたのは、張の慟哭であった。叫びとも泣き声ともつかぬ、猫の鳴き声のような声であった。桂の心臓が収縮する。
すまぬ——それしか言えなかった。
その日のうちに、桂は密かに調査を命じた。あの女の素性を探れ、と。静かに、誰にも悟られぬように、と。
二日後、報告が届いた。
『燕王の寵姫、張氏』
桂は報告書を黙読し、深く、深く溜息をついた。
よりによってあの男の、と。
恋はいっそう遠いものとなった。
燕王——朱棣に会ったのは十年以上も昔のことである。あの頃の彼は幼く、今とは性格も全く違っていた。
複雑な出自ゆえに心を病み、自尊心も地に落ち、常に人の顔色を窺っている子供であった。その幼い朱棣に愛情を注いだのは桂であり、彼との信頼関係こそが、朱棣の心の支えとなっていたのである。
何でも話せる相手——それが自分であった。もしその自分が彼を裏切ったなら、彼の心はどのように歪んでしまうことか。
桂はそう考えた。そして、ただ溜息しか出てこなかった。
愛は時として、このように絶望的な形で人を訪れるものである。手に入れることのできぬもの、手に入れてはならぬもの——そのようなものに心を奪われる時、人はただ溜息をつくより他にないのであった。
桂は書斎の窓辺に立ち、遠か彼方を見つめた。そこには、手の届かぬ愛への憧憬と、諦観が混在していた。
長年凍りついていた心を溶かしてくれた小さな存在。しかし、その存在は他の誰かのもので、決して自分のものにはなり得ないのだ。
桂は静かに目を閉じ、彼の静かな嘆息が夜の闇に溶けていった。
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