北平の後宮に、午後の陽が白く差していた。簾越しの光は庭石を照らし、風が白絹の暖簾を揺らしている。徐は一人、茶を啜りながら庭を眺めていた。その背後に、猫のように忍び寄る気配があった。
振り向けば張である。絹衣に身を包んだ美貌の女が、どこか落ち着かぬ様子で立っていた。徐は微笑んだが、それは愛想ではない。深く沈み込むような、人の心を探るような眼差しであった。
「……私に、何か隠しておいでですね?」
徐がぽつりと言うと、張は目を細めた。
「どうして、そう思うのです?…だってニャ……桂さま、急に冷たくなったニャ。いきなり私を避けるようになった……私だって知らんニャ!」
声の端に滲む震えを隠しきれなかった。徐は静かに茶碗を置き、口を開いた。
「張。このままでは、誰も幸せにならぬぞ」
その言葉は柔らかく、それでいて骨の髄に突き刺さるようであった。張は唇を噛んだ。
「……わかってるニャ」
「でも、桂さまの顔を見てしまったニャ……私を見て、ちょっとだけ寂しそうに笑った。私、そのときに、もう全部どうでもよくなったニャ」
張の言葉は熱を帯びていた。
「……桂さまのために死ねるって思ったニャ」
徐は目を伏せ、少し間を置いてから言った。
「……それは、愛ですわね」
張がはっと目を見開く。徐は視線を戻し、張を真正面から見据えた。
「あなたのような娘が、それを言うとは思わなかった。けれど——それならば、なおのこと。私にだけ、話してくれませんか。あなたが背負っているもの、あなたが望んでいること。……誰も知らぬなら、せめて私だけに」
張は数秒の沈黙ののち、膝を折って顔を伏せた。
「……私、子は産みたくないニャ。体型が崩れてしまう。」
その告白は静かで、しかし後宮という場所においてはあまりにも異質であった。
「それでも、愛してるニャ……だけど、母にはなりたくない。ずっと、女でいたいニャ……」
徐は、ふぅ、と息を吐いた。
「……以前あなたに聞いた、奇皇后の教えですね」
奇皇后の教え——それは張のような美貌を持つ女性たちが、いかにして己の魅力を最大限に生かし、愛を手に入れ、世を渡っていくかという、華やかな生のための指南書であった。愛されること、そしてその愛を力に変えること。美しさゆえに許される、ある種の自由。張は、その教えを無意識のうちに体現してきたのである。
「それもひとつの女の在り方です。……だが、それを望むなら、あなたは死ぬ瞬間まで女である覚悟が要ります」
張は小さく頷いた。
「想像できないニャ……」
徐はそれ以上責めることも諭すこともせず、ただ茶を啜った。そして、ぽつりと呟く。
「……あなたは、美しい。だからこそ、愚かになれる。その自由を、私は少しだけ、羨ましい」
醜女として生まれた徐には、張が持つような「愚かになれる自由」はなかった。幼い頃から、鏡に映る己の姿を見るたびに、女としての幸福を諦めるしかなかった。美しさがもたらす甘い誘惑も、それによって得られる安易な道も、彼女には最初から与えられていなかったのである。
故に、徐が磨き上げたのは知性と胆力、そして器量であった。それは人の心を読み、物事を理性的に判断し、困難な状況を切り開くための、唯一の武器であった。彼女の人生は常に計算と忍耐、そして静かな覚悟の上に成り立っていた。
張は徐を見つめた。その瞳に、初めて見る色があった。
「でもニャ……私、徐さんが羨ましいニャ」
「……え?」 徐は戸惑った。
「だって、徐さんは強いニャ。誰からも愛されなくても、一人で立っていられるニャ。私は……私は愛されなかったら、何も残らないニャ」
張の声は震えていた。
「美しいって言われるけれど、それがなくなったら私は何ニャ?桂さまに飽きられたら、私はどこに行けばいいニャ?……でも徐さんは違うニャ。徐さんは、誰に愛されなくても、徐さんでいられるニャ」
徐は息を呑んだ。そして、かすかに笑った。それは自嘲でも憐憫でもない、何か深いところからの笑いであった。
「……そうですね。私は確かに一人で立っていられる。けれど張、あなたは知らない。一人で立つことがいかに孤独であるのかを」
徐の声に、初めて感情の波が立った。
「私は愛を求めること、得ることを、人生早期に諦めました。醜女に愛は来ないと、幼い頃から知っていたからです。だから知性を磨き、処世を学び、生き抜く術を身につけた。確かに私は強そうに見えるかもしれませんね。けれど……」
徐は庭の向こうを見つめた。
「けれど、夜毎に思うのです。もし私が美しく生まれていたら、恋をし、泣いて、笑って……そんな人生もあったのかもしれないと」
張は黙って聞いていた。
「あなたの生き方は、美しい。恋に身を焦がし、男のために死ねるなどと言える。それは甘美で危うく、そして……私には決して許されなかった、贅沢なのです」
二人の間に、静寂が流れた。美女と醜女。愛される者と愛されぬ者。しかし今、その境界は曖昧になっていた。
「私たちは、お互いの人生を羨んでいるのですね」張がぽつりと言った。
「そうかもしれません」徐が答えた。
「あなたは愛し愛されることで不安を抱え、私は愛への諦観で心の平穏を保っている」
張はそっと徐の横に腰を下ろした。
「でもニャ……今、ちょっとだけ思ったニャ。もし私が徐さんで、徐さんが私だったら……やっぱり同じように悩んでるかもしれないニャ」
「……そうかもしれませんね」
徐は微笑んだ。今度は真の笑みであった。
「人は皆、自分に与えられなかったものを欲しがる。それが人の性なのでしょう。美しき者は理を、醜い者は美を。愛される者は孤高を、愛されぬ者は無償の愛を」
「でも」張が言った。「今の私たちは、どっちでもない、ただの女同士ニャ」
その通りであった。後宮の一角で、午後の陽に照らされながら、二人の女がいるだけであった。一人は美貌ゆえの苦悩を抱き、もう一人は醜さゆえに磨き上げた知性を持っている。しかし今この瞬間、彼女たちはそれぞれの重荷を分かち合う、ただの人間であった。
美醜も、愛も孤独も、すべては相対的なものに過ぎない。ただ、人として生きる困難さだけが、二人の間に共通していた。
風が暖簾を揺らし、茶の香りが立ち上る。静かな午後であった。