第11話 美女と醜女

北平ほくへい後宮こうきゅうに、午後ごごの陽が白く差していた。簾越しすだれごしの光は庭石にわいしを照らし、風が白絹しらぎぬ暖簾のれんを揺らしている。じょは一人、茶をすすりながら庭を眺めていた。その背後に、猫のように忍び寄る気配があった。

振り向けばちょうである。絹衣けんいに身を包んだ美貌びぼうの女が、どこか落ち着かぬ様子で立っていた。徐は微笑んだが、それは愛想ではない。深く沈み込むような、人の心を探るような眼差しまなざしであった。

「……私に、何か隠しておいでですね?」

徐がぽつりと言うと、張は目を細めた。

「どうして、そう思うのです?…だってニャ……桂さま、急に冷たくなったニャ。いきなり私を避けるようになった……私だって知らんニャ!」

声の端ににじむ震えを隠しきれなかった。徐は静かに茶碗ちゃわんを置き、口を開いた。

「張。このままでは、誰も幸せにならぬぞ」

その言葉は柔らかく、それでいて骨のずいに突き刺さるようであった。張はくちびるんだ。

「……わかってるニャ」

「でも、桂さまの顔を見てしまったニャ……私を見て、ちょっとだけ寂しそうに笑った。私、そのときに、もう全部どうでもよくなったニャ」

張の言葉は熱を帯びていた。

「……桂さまのために死ねるって思ったニャ」

徐は目を伏せ、少し間を置いてから言った。

「……それは、愛ですわね」

張がはっと目を見開く。徐は視線を戻し、張を真正面から見据えた。

「あなたのような娘が、それを言うとは思わなかった。けれど——それならば、なおのこと。私にだけ、話してくれませんか。あなたが背負っているもの、あなたが望んでいること。……誰も知らぬなら、せめて私だけに」

張は数秒の沈黙ののち、ひざを折って顔を伏せた。

「……私、子は産みたくないニャ。体型が崩れてしまう。」

その告白は静かで、しかし後宮という場所においてはあまりにも異質いしつであった。

「それでも、愛してるニャ……だけど、母にはなりたくない。ずっと、女でいたいニャ……」

徐は、ふぅ、と息を吐いた。

「……以前あなたに聞いた、奇皇后きこうごうの教えですね」

奇皇后の教え——それは張のような美貌を持つ女性たちが、いかにしておのれ魅力みりょくを最大限に生かし、愛を手に入れ、世を渡っていくかという、華やかな生のための指南書しなんしょであった。愛されること、そしてその愛を力に変えること。美しさゆえに許される、ある種の自由。張は、その教えを無意識むいしきのうちに体現たいげんしてきたのである。

「それもひとつの女の在り方です。……だが、それを望むなら、あなたは死ぬ瞬間まで女である覚悟かくごが要ります」

張は小さくうなずいた。

「想像できないニャ……」

徐はそれ以上責めることもさとすこともせず、ただ茶を啜った。そして、ぽつりとつぶやく。

「……あなたは、美しい。だからこそ、愚かになれる。その自由を、私は少しだけ、うらましい」

醜女しこめとして生まれた徐には、張が持つような「愚かになれる自由」はなかった。幼い頃から、鏡に映る己の姿を見るたびに、女としての幸福をあきらめるしかなかった。美しさがもたらす甘い誘惑ゆうわくも、それによって得られる安易あんいな道も、彼女には最初から与えられていなかったのである。

故に、徐が磨き上げたのは知性と胆力たんりょく、そして器量きりょうであった。それは人の心を読み、物事を理性的に判断し、困難な状況を切り開くための、唯一ゆいいつの武器であった。彼女の人生は常に計算と忍耐にんたい、そして静かな覚悟の上に成り立っていた。

張は徐を見つめた。そのひとみに、初めて見る色があった。

「でもニャ……私、徐さんが羨ましいニャ」

「……え?」 徐は戸惑った。

「だって、徐さんは強いニャ。誰からも愛されなくても、一人で立っていられるニャ。私は……私は愛されなかったら、何も残らないニャ」

張の声は震えていた。

「美しいって言われるけれど、それがなくなったら私は何ニャ?桂さまに飽きられたら、私はどこに行けばいいニャ?……でも徐さんは違うニャ。徐さんは、誰に愛されなくても、徐さんでいられるニャ」

徐は息をんだ。そして、かすかに笑った。それは自嘲じちょうでも憐憫れんびんでもない、何か深いところからの笑いであった。

「……そうですね。私は確かに一人で立っていられる。けれど張、あなたは知らない。一人で立つことがいかに孤独であるのかを」

徐の声に、初めて感情の波が立った。

「私は愛を求めること、得ることを、人生早期に諦めました。醜女に愛は来ないと、幼い頃から知っていたからです。だから知性を磨き、処世しょせいを学び、生き抜くすべを身につけた。確かに私は強そうに見えるかもしれませんね。けれど……」

徐は庭の向こうを見つめた。

「けれど、夜毎よごとに思うのです。もし私が美しく生まれていたら、恋をし、泣いて、笑って……そんな人生もあったのかもしれないと」

張は黙って聞いていた。

「あなたの生き方は、美しい。恋に身を焦がし、男のために死ねるなどと言える。それは甘美で危うく、そして……私には決して許されなかった、贅沢ぜいたくなのです」

二人の間に、静寂せいじゃくが流れた。美女と醜女。愛される者と愛されぬ者。しかし今、その境界きょうかい曖昧あいまいになっていた。

「私たちは、お互いの人生を羨んでいるのですね」張がぽつりと言った。

「そうかもしれません」徐が答えた。

「あなたは愛し愛されることで不安を抱え、私は愛への諦観で心の平穏を保っている」

張はそっと徐の横に腰を下ろした。

「でもニャ……今、ちょっとだけ思ったニャ。もし私が徐さんで、徐さんが私だったら……やっぱり同じように悩んでるかもしれないニャ」

「……そうかもしれませんね」

徐は微笑んだ。今度はまことの笑みであった。

「人は皆、自分に与えられなかったものを欲しがる。それが人のさがなのでしょう。美しき者は理を、醜い者は美を。愛される者は孤高を、愛されぬ者は無償の愛を」

「でも」張が言った。「今の私たちは、どっちでもない、ただの女同士ニャ」

その通りであった。後宮の一角で、午後の陽に照らされながら、二人の女がいるだけであった。一人は美貌ゆえの苦悩くのうを抱き、もう一人は醜さゆえに磨き上げた知性を持っている。しかし今この瞬間、彼女たちはそれぞれの重荷を分かち合う、ただの人間であった。

美醜も、愛も孤独も、すべては相対的そうたいてきなものに過ぎない。ただ、人として生きる困難さだけが、二人の間に共通していた。

風が暖簾を揺らし、茶の香りが立ち上る。静かな午後であった。

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