数日を経て、張と呼ばれる猫めいた女、まるで性に従うがごとく、朝な夕なに桂の周囲を遊弋す。
まるで野良の仔が、塀伝いに己が縄張りを確かめるようなものだ。気まぐれでいて、一途。
奔放に見えて、やけに執着深い。
なるほど、これは困る。実に困る。 人間の心理とは奇妙なもので、長年慣れ親しんだ痛みを失うこを、かえって恐れるものである。桂もまた然り。異民族の血ゆえに受けてきた蔑視は、もはや彼の一部と化していた。それが棘だと自覚しながらも、その棘を抜かれることへの不安が、彼の奥底に巣食っていたのだ。
「高麗の装いも好きだけど、なんといっても女真のいで立ちの桂さま、たまらんニャア♡」
軽薄とも無垢ともつかぬ声音に、桂の顔がわずかに綻ぶ。この一言が、彼の胸中をざわつかせた。 高麗の地にあって、桂は長く「完顔阿骨打」と呼ばれてきた。
完顔阿骨打とは、かつて金を興した女真の英雄。その名を冠されることは、一見すれば栄誉に見えるが、実際は異類の象徴として揶揄されたのだ。
栄光とは、時に最も残酷な嘲笑の衣を纏う。
「功あらば人にあらず。失すれば異邦の徒」
それが、彼の歩んできた道であった。なまじ手柄を立てれば疎まれ、失策すれば血筋を責められる。朝鮮半島の南北を縦断するたび、その痛みは増していった。
渡高麗の折、祖父の兄―これまた高麗に仕えた将軍であった―がこう言った。 「混血は苦労するぞ」 そのときは意味が分からなかった。が、今となっては骨身に沁みる。
忠義、勤王、戦功―何を尽くしても「外の者」として見られるその冷ややかさが、桂の中に小さな棘を残し、それはやがて信念すらも突き刺す鉄片と化していた。 だが― 「女真族の格好した桂さまが好きニャア<〜♡」 張は、あっけらかんと、無垢な調子でそう言うのだ。
その瞬間、長年胸に刺さっていた棘が、まるで春の陽光に融けた氷のように、するりと溶けていくのを感じた。あまりにも自然に、あまりにも容易に。
(なんということだ……) 桂は内心で呟いた。十余年間、己を苛み続けてきた痛みが、この女の一言でかくも簡単に消え去るとは。
張の無垢な賞賛は、彼が望んでいながら決して得られずにいたものだった。 しかし―人間とは実に複雑な生き物で、求めていたものを得ると、今度はそれを疑うようになる。 (この女、なぜこれほどまでに私を慕うのか。何か企みがあってのことだろうか) 桂の周囲をくるくると舞い、まるで尾を持っていたならば盛大に振っていたであろう勢いで、まとわりつく張を見つめながら、彼は己の猜疑心に苛まれた。
桂は書物を開いたまま、無関心の仮面を崩さぬ。が、その気配、その香、その声、その距離——すべてが、彼の内面に波を呼び起こす。
「……また来たか。今日は何の用だ?」
「ん〜、桂さまの顔が見たかっただけニャ♡」
ふわりと細い腕が、背後から絡みつく。
張の小柄な体が、ぴたりと桂の背に張りつく。
「背の高い人、好き……落ち着くニャア…」
花の香とも、果実の香ともつかぬ微かな匂いが、鼻先をかすめる。桂の眉がわずかに震えた。
「……そうか」
その声は、静謐である。だがその内奥では、何かが泡立っている。 (……柔らかく、大きな胸が、私の背に……ああ、これは、駄目なやつ) 視線を落とすと、布地が限界まで張りつめた胸元が目に入る。
(……っ) 喉が、ごくりと鳴った。それは意志ではない。生理である。理性が働くより先に、思考のどこかで、妄念が芽吹いている。 (このまま押し倒したら、彼女はどんな顔をするのか…まず帯を解き…馬鹿が、何を考えている?)
「桂さまぁ〜? ぼーっとしてるニャーア。お茶、入れるニャ?」
「あ、ああ……ありがたく頂く。」
その笑顔。あまりに無垢。あまりに無防備。己がどれほど「危険」な存在であるか、彼女は露ほども知らぬ。だからこそ、始末が悪い。桂は思う。 (落ち着け。私は高麗の将軍だ…) だが、将軍である以前に一個の男であることは、否定しようもない。内なる獣性と、武人の倫理。その綱引きに、今日も心は引き裂かれる。 (……今夜も、冷水をかぶらねばなるまい) 桂は、深く息を吐いた。
張は、かつて元の都に住んでいた。父は武将・張玉。母は側女であり、奇皇后に仕えた女であった。
張自身も、幼い頃より後宮で宮女見習いとして育った。武術の才に恵まれ、なかでも薙刀の扱いは並の男よりも上手であった。 彼女はかつて、奇皇后に問うたことがある。 「自分は男に生まれ、行く行くは将軍になりたかった!」と。
奇皇后は、扇を閉じて張の顔をじっと見つめた。
「お前は何を勘違いしているのだ。男に生まれたかった?で、いずれは将軍になりたかっただと?」
「はい!私は武に長けております。きっと男であれば、立派な将軍になれたと確信しております!」
皇后は静かに首を振った。 「愚かな娘よ。男の人生がどれほど過酷か、お前は知らぬ」
「過酷?」
「男は何も持っていない。生まれた瞬間から、すべてを自力で勝ち取らねばならぬ。愛も、地位も、富も、名声も——何一つとして、与えられたものがないのだ」
皇后の声は、諭すように優しく、しかし厳しい真実を孕んでいた。
「男は弱ければ死ぬ。それだけだ。情けも、同情も、救いの手も差し伸べられることはない。なぜなら、男とはそういう存在だからだ」
「女は違うのですか?」
「そうだ、女は違う」
皇后は微笑んだ。
「女は生まれながらにして、すべてを持っている。愛される力、守られる権利、慈しまれる資格——それらはすべて、お前の生来の武器だ」
張は困惑した。
「で、でも、私は戦場で剣を振るい、敵を討ち取りたいのです!」
「馬鹿な」
皇后の声が鋭くなった。
「男と同じ土俵で戦い、何の意味がある? お前が剣で一人の敵を倒したとしよう。だが、お前の微笑み一つで、百人の男を虜にできるではないか」
「そ、そんな……」
「勝ち負けという概念そのものが、男の作った幻想だ。女にとって、勝ち負けなど存在せぬ。なぜなら、女は戦わずとも既に勝っているからだ」
皇后は立ち上がり、窓辺に向かった。
「お前は武を捨てよ。剣ではなく、己の女性性を武器とせよ。それこそが、天がお前に与えた最強の力なのだ」
「女性性……ですか」
「そうだ。愛らしさ、優しさ、弱さでさえも——それらはすべて、男を征服する武器となる。剣では一人しか倒せぬが、女の魅力は千人を従わせる。傾国、というだろう?女にはたった一人で国を滅ぼす力がある。あれは男には無理だ。」
皇后は振り返り、張に向かって言った。
「しかし、女の全盛期は長くはない。その間に、真に価値ある男を捕まえることだ。武芸で身を立てようなどと、くだらん男の真似事をしている暇はない」
張は、深く頭を下げた。
「……分かりました。今から武を、捨てます!」
その日を境に、張は武器を手に取ることをやめた。代わりに、己の愛らしさを磨くことに専念した。猫のような仕草、無邪気な笑顔、男心をくすぐる甘え方——それらはすべて、奇皇后の教えに従った結果であった。
そして– 彼女が幼い頃の朱棣と出会ったのも、元の都においてであった。当時の朱棣はまだ童顔の少年。燕王ではなく、ただの一皇子に過ぎず、己の居場所を得るため、敵地に赴き密かに父のための情報を集めていた。
いわば小さな間諜である。張にとって、朱棣はその頃から「弟のような存在」であった。今もその感覚は変わらない。朱棣がどれほど好意を寄せてきても、彼女にとってはあくまで「可愛い弟」なのだ。
張は一切、悪びれぬ。むしろ、戯れることに陶然としている。宮女に「何か良いことでも?」と訊かれれば、 「秘密ニャ」 と小声で笑う。
笑うその顔がまた、絵のように可憐で、男の理性を殺しにかかる。
その最中、燕王・朱棣が顔を出した。しかし、張はとっさに腹痛を装って追い返した。
なぜ腹痛なのか、自分でも分からない。ただ、それで朱棣が下がったのだから、結果オーライだ。
朱棣は張に対し異様に甘い。いや、愚かしいほどに盲目的だ。
まるでガラス細工を扱うかのように慎重で、触れることすらおずおずとする。彼は、張の心がすでに別の男へと傾き始めていることに、まだ気づいていない。
張にとって朱棣は今も昔も「弟のような存在」でしかないことに、彼は気づいていないのである。
その夜。 桂が冷水をかぶり終えたその部屋に、朱棣が訪れる。
「おや、桂兄上、こんな日に冷水浴とは……無茶されますな」
「少し、落ち着いて考えたかっただけだ」
「なるほど……それより、兄上、聞いてくださいよ……」
朱棣は延々と愚痴を垂れ流す。政務、兵の士気、宮廷のしがらみ。話は途切れず、やがて畳の上で眠りこけた。
桂は、静かに彼に布団をかけてやる。 朱棣にとって、桂は兄であり、父であり、武術の師であり、何よりも「心の根」であった。
桂もまた、朱棣を愛していた。だが、彼の過ぎた甘やかしが彼を「半端な男」に育ててしまった。
そのことを、彼はずっと悔いている。己に、人を律する厳しさがなかった。
だからこそ、朱棣と軍の指導を厳しい元モンゴルの将軍に任せざるを得なかったのだ。 桂は、優しすぎた。だが―優しすぎる者にだけ見える風景が、確かにある。それは、朱棣にも、張にも、まだ見えていない孤独の景色であった。