第6話 氷檻

夜、桂は宿舎しゅくしゃ窓辺まどべに立っていた。故郷の屋敷やしきを思い浮かべるたび、胸に氷塊ひょうかいが宿るのを感じる。

桂の屋敷は、夜毎にてついた。妻は二人。康氏こうし韓氏かんし、共に名門めいもんの血を引くが、愛情あいじょうなど微塵みじんもない。互いをにらみ合い、言葉の毒矢どくやを放つ日々である。家中かちゅうはまるで氷の牢獄ろうごく息苦いきぐるしさばかりが充満じゅうまんしていた。

一人がつくり笑いをかべ毒を吐けば、もう一人ははりのような言葉でき刺す。そこに人間らしいぬくもりなど皆無かいむで、ただえ冷えとした憎悪ぞうおひびき合うのみであった。その不和ふわは、血を分けた子らにもくらい影を落とした。同じ母の腹から生まれた息子同士でさえ、世継よつぎの座をめぐって陰湿いんしつな火花をらしている。異母いぼの兄弟はもちろん、同母どうぼの息子たちでさえにらみ合い、さぐり合い、互いの存在におびえながら生きているのだ。

桂は家に戻るたび、深い溜息ためいきをついた。戦場せんじょう疲労ひろうよりも、この氷のやかたつめたさが彼のたましいむしばんだ。異国いこく軍営ぐんえい、明国の寒夜かんやでさえ、むしろ心やすらいだ。そこには単純たんじゅん使命しめいがあるのみで、嫉妬しっと陰謀いんぼうもないからである。

だが時として、桂は自らに問うた。己の心はいずこにあるのか、と。忠義ちゅうぎ栄誉えいよに身をささげた生涯しょうがいの中で、真の愛など知らぬまま、ただむなしく歳月さいげつを重ねてきただけではないのか。

ただ一人、ちょうという女だけが違っていた。身分みぶん財産ざいさんも求めず、猫のようにただ純粋じゅんすいに彼をしたってくる。そのんだひとみ、その無邪気むじゃきな笑顔は、こおりついた心をそっとかすようであった。まるでだまりにたたずむ猫が、何の計算けいさんもなく人にあまえるように、彼女は桂のかたわらにり添った。

私は……あの子が、好きだ。

その感情が胸に芽生めばえたとき、桂は——心のそこから、怖くなった。

私がこの手を取れば、あの子は確実に地獄じごくを見る。

康氏と韓氏の確執かくしつは、新たな女が現れれば更に激化げきかするであろう。若く美しい女への嫉妬しっと寵愛ちょうあいめぐあらそい、そして跡継あとつぎ問題への介入かいにゅう政略せいりゃくも、嫉妬も、陰口かげぐちも、命すらもあやうい。

桂は、過去に一度だけ側室そくしつを迎えようとしたことがあった。清楚せいそ聡明そうめいな女であったが、やかたに入って一月とたぬうちに、原因不明げんいんふめいやまいたおれ、苦悶くもんのうちに息絶いきたえた。医師いしは「きゅう熱病ねつびょう」と診断しんだんしたが、桂は真相しんそうさっしていた。顔色かおいろの変わりよう、口元くちもとに残ったわずかな泡沫ほうまつ、そして何より、妻たちの冷然れいぜんとした表情ひょうじょうが全てを物語ものがたっていた。

間違いなく毒であった。

毒を盛られたといううわさもあったが、真相しんそうやみの中である。それ以来、桂は二度と新しい女を迎えることはなかった。あの夜から十年が過ぎた今も、桂の心には憤怒ふんぬくすぶり続けている。無辜むこの女を手にかけた者への怒り、そして何より、自らの無力むりょくへの怒りが。

張のような無垢むくな存在を、そんな修羅場しゅらばほうり込むわけにはいかない。

——だから。

「来るな。私のそばに、もう来るな!」

桂は目を合わせずに言った。低く、つめたく、き放すように。

猫は、一瞬だけぽかんとした顔をした。だが、すぐに——目になみだめ、くちびるを噛み、ぽろぽろとこぼれた。

「……ニャア……ニャアアアア……ッ!」

それは叫びのようだった。声にならない嗚咽おえつと一緒に、彼女は走り去った。そのうしろ姿は小さく、かなしく、桂の胸をめ付けた。

桂は動かなかった。動けなかった。こぶしが膝の上で震えていた。

すまぬ——心の中で何度もり返しても、口には出せない。彼の背は、どこまでも静かで、重かった。

それでも——

あの子が、幸福こうふくでありますように。

それだけを祈った。

あいすることの残酷ざんこくさを、桂は初めて知った。守りたいものを守るために、その手をはなさなければならない矛盾むじゅん。愛するがゆえにとおざけなければならない苦悩くのう

明国の宿舎しゅくしゃで、桂は一人、夜をむかえた。故郷の氷のような家を思い、つめたい沈黙ちんもくの中で、彼の心だけが静かに燃えていた。それは愛という名の、永遠えいえんたされることのないほのおであった。

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