夜、桂は宿舎の窓辺に立っていた。故郷の屋敷を思い浮かべるたび、胸に氷塊が宿るのを感じる。
桂の屋敷は、夜毎に凍てついた。妻は二人。康氏と韓氏、共に名門の血を引くが、愛情など微塵もない。互いを睨み合い、言葉の毒矢を放つ日々である。家中はまるで氷の牢獄、息苦しさばかりが充満していた。
一人が作り笑いを浮かべ毒を吐けば、もう一人は針のような言葉で突き刺す。そこに人間らしい温もりなど皆無で、ただ冷え冷えとした憎悪が響き合うのみであった。その不和は、血を分けた子らにも暗い影を落とした。同じ母の腹から生まれた息子同士でさえ、世継ぎの座を巡って陰湿な火花を散らしている。異母の兄弟はもちろん、同母の息子たちでさえ睨み合い、探り合い、互いの存在に怯えながら生きているのだ。
桂は家に戻るたび、深い溜息をついた。戦場の疲労よりも、この氷の館の冷たさが彼の魂を蝕んだ。異国の軍営、明国の寒夜でさえ、むしろ心安らいだ。そこには単純な使命があるのみで、嫉妬も陰謀もないからである。
だが時として、桂は自らに問うた。己の心はいずこにあるのか、と。忠義と栄誉に身を捧げた生涯の中で、真の愛など知らぬまま、ただ虚しく歳月を重ねてきただけではないのか。
ただ一人、張という女だけが違っていた。身分も財産も求めず、猫のようにただ純粋に彼を慕ってくる。その澄んだ瞳、その無邪気な笑顔は、凍りついた心をそっと溶かすようであった。まるで陽だまりに佇む猫が、何の計算もなく人に甘えるように、彼女は桂の傍らに寄り添った。
私は……あの子が、好きだ。
その感情が胸に芽生えたとき、桂は——心の底から、怖くなった。
私がこの手を取れば、あの子は確実に地獄を見る。
康氏と韓氏の確執は、新たな女が現れれば更に激化するであろう。若く美しい女への嫉妬、寵愛を巡る争い、そして跡継ぎ問題への介入。政略も、嫉妬も、陰口も、命すらも危うい。
桂は、過去に一度だけ側室を迎えようとしたことがあった。清楚で聡明な女であったが、館に入って一月と経たぬうちに、原因不明の病に倒れ、苦悶のうちに息絶えた。医師は「急な熱病」と診断したが、桂は真相を察していた。顔色の変わりよう、口元に残った僅かな泡沫、そして何より、妻たちの冷然とした表情が全てを物語っていた。
間違いなく毒であった。
毒を盛られたという噂もあったが、真相は闇の中である。それ以来、桂は二度と新しい女を迎えることはなかった。あの夜から十年が過ぎた今も、桂の心には憤怒が燻り続けている。無辜の女を手にかけた者への怒り、そして何より、自らの無力への怒りが。
張のような無垢な存在を、そんな修羅場に放り込むわけにはいかない。
——だから。
「来るな。私のそばに、もう来るな!」
桂は目を合わせずに言った。低く、冷たく、突き放すように。
猫は、一瞬だけぽかんとした顔をした。だが、すぐに——目に涙を溜め、唇を噛み、ぽろぽろと零れた。
「……ニャア……ニャアアアア……ッ!」
それは叫びのようだった。声にならない嗚咽と一緒に、彼女は走り去った。その後ろ姿は小さく、哀しく、桂の胸を締め付けた。
桂は動かなかった。動けなかった。拳が膝の上で震えていた。
すまぬ——心の中で何度も繰り返しても、口には出せない。彼の背は、どこまでも静かで、重かった。
それでも——
あの子が、幸福でありますように。
それだけを祈った。
愛することの残酷さを、桂は初めて知った。守りたいものを守るために、その手を離さなければならない矛盾。愛するがゆえに遠ざけなければならない苦悩。
明国の宿舎で、桂は一人、夜を迎えた。故郷の氷のような家を思い、冷たい沈黙の中で、彼の心だけが静かに燃えていた。それは愛という名の、永遠に満たされることのない炎であった。