張の心は、もはや燕王朱棣の威光に照らされることはない。桂に振られて以来、その魂は深い闇の底に沈み、日々涙に暮れるばかりであった。心はといえば、遥か高麗の地にて剣を振るう静謐なる男のもとへと飛び去り、二度と戻ることはないのである。
思い返せば、燕王との日々は今となっては遠い昔のことのように感じられた。あの頃は、朱棣の突然の愛情表現にも、ある種の愛らしさを感じていた。
「エーイ♡」
燕王は決まって張の後ろから現れ、その豊かな胸を揉むように抱きしめるのが常であった。それが彼なりの挨拶であり、愛情表現であった。張は最初こそ驚いたものの、次第にその無邪気さに慣れ親しんでいった。
「あー、たまんねぇ」
朱棣は興奮気味に張の胸の谷間に顔を埋め、まるで子どものように無邪気に喜んでいた。その姿は確かに愛らしく、憎めないものであった。張も当時は微笑ましく思い、彼の頭を優しく撫でてやったものだ。
しかし、それは明らかに恋愛感情ではなかった。張にとって朱棣は、愛すべき弟のような存在であり、保護欲をかき立てる相手でしかなかった。
宮廷の女性たちは皆、張が数多の男性と戯れているのではないかと噂していたが、実際のところ、張が知る男性は燕王ただ一人であった。
張には確固たる好みがあった。弱々しく、見込みのない男性を生理的に受け付けることができなかった。強さと威厳を兼ね備えた男性にのみ、心動かされるのであった。
燕王は確かに権力者であったが、張の前では無邪気な少年のような一面を見せるため、どうしても男性として見ることができなかったのだ。
「桂さま……どうして……悲しいニャア〜」
今となっては、あの静謐で強靭な高麗の男性、桂のことしか考えられない。夜毎、張は絹の枕を涙で濡らしながら、ただひたすらに桂の面影を追い求めた。己が身を慰めようとしても、涙が頬を伝って落ち、何もかもが虚しく感じられる。宮女が何やら問いかけてくるが、まるで聞こえぬかのように灯火を消し、闇の中に身を沈める。
「張さま、お膳をお下げしてもよろしゅうございますか」
「ごめんね、何も食べたくないニャ……」
張はまた新たな涙を流した。箸にも触れぬ膳を見て、宮女たちは顔を見合わせる。
「張さま、少しでもお召し上がりにならないと、お体に障ります」
「桂さま……」張は呟くように言った。「桂さまは……もう私のことなんか……ニャア…ニャアアアッ!」
言葉の途中で嗚咽が漏れ、張は袖で顔を覆った。その様は、まるで溺れゆく者が最後の藁にすがるが如くであった。宮女たちは困惑を隠せずにいた。
一方、燕王は張の変化に戸惑いを隠せずにいた。いつものように後ろから抱きしめようとしても、張は身を翻して避けるようになった。あの愛らしい「エーイ♡」の挨拶も、今では空しく響くばかりであった。
「張よ、何故そのように冷たくするのだ」
朱棣は張の手を取ろうとしたが、張は静かに手を引いた。
「申し訳ございません、燕王さま。体調が……」
張の声は震えていた。朱棣に対する情はあったが、それは兄弟愛のようなものであり、異性としての情熱とは程遠いものであった。桂という強い男性を知った今、その差は歴然としていた。
やがて数日が過ぎた頃、燕王の疑念は行動となって現れた。
「張がずっと月の障りだと申すのは、胡散臭いぞ」
朱棣は眉をひそめ、側近に命じた。
「内医局の女医を遣わせ。必ず診察させよ」
内医局の女医は、戦々恐々として張の寝宮へと足を向けた。張は最初こそ頑なに拒んだ。
「診察したくないニャア。ただの長引く生理ニャ!」
張の声は涙で震えていた。
「されど張さま、燕王さまの御命にて参りました。どうか」
女医が熱を測り、脈を診るうちに、張の顔色は次第に青ざめていく。張の頬には涙の跡が幾筋も残っていた。やがて女医が小声で尋ねた。
「張さま……もしかして、お心に何か」
その時、張の唇が震え、また新たな涙がこぼれ落ちた。心の奥底から絞り出すような声で言った。
「燕王とエッチしたくないニャ〜、あの人は弟みたい。そもそも男として見たこと一度もなかったニャ!惰性で結婚しただけニャ!向こうが一方的に私を好きなのニャ!」
張の声は涙で途切れがちになった。燕王の無邪気な愛情表現を思い出すと、余計に胸が痛んだ。あの「エーイ♡」という挨拶も、「あー、たまんねぇ」と言いながら胸の谷間に顔を埋める姿も、今では全てが重荷に感じられた。
「戯れるのもう嫌ニャ!あの人は確かに愛らしいけれど、私が求める男性の強さがないニャ!」
この一言が、全てを破綻させた。女医は血の気を失い、とにかく、その場を辞することにした。
彼女が向かったのは、後宮の主たる徐の許であった。
「徐さま、大変なことが」
女医は震え声で事の次第を報告した。張が燕王を弟のように思っていること、男として見ることができないと告白したことを詳細に語った。
徐は静かに茶を啜り、しばらく沈黙した後、まるで何事もなかったかのように言った。
「素直に私を頼ってくれて、ありがとう」
「しかし徐さま、これは」
「張が燕王を男として見ていないと?」
「はい……弟のようだと……もう交わることはできないと」
女医は困惑した表情を浮かべた。
「どうすれば良いでしょうか。燕王さまに正直に」
「いえ。誰にも口外せぬこと。燕王には心労による下血とでも伝えよ。病ではないが、深刻な心の問題を抱えていることは確かでしょう。燕王をこれ以上混乱させぬよう、静かに処理すること」
「承知いたしました。しかし、張さまの心変わりの原因は」
「それこそが問題の核心でしょう。何かが彼女の心を変えたのです」
女医は深々と頭を下げ、退出していった。
徐はひとり残され、ため息を吐いた。彼女の脳裏には、かつて燕王にも不貞の影があったことが蘇っていた。そういうのは理性で抑えがたいことも彼女は熟知していた。
「面倒なことになりましたね……真っ黒だとは思うが……彼女が誰に熱を上げているのか、調べさせましょう」
数刻後、燕王の耳にその報が届いた。
「張妃は大病ではございませんが、心労により、しばらく休息が必要かと」
それを聞いた朱棣は、ぽろぽろと涙をこぼした。
「あーよかった!大病かと思ったよぉ(泣)」
彼の心には、張への純粋な愛情があふれていた。あの「エーイ♡」の挨拶も、張への愛しさの表れであった。張の豊かな胸に顔を埋めるあの瞬間こそが、朱棣にとっての至福の時であったのだ。
徐は扇を手に取り、二人の幼い宦官を呼び寄せた。馬三宝とイシハ——いずれも利発な少年である。
「馬三宝、イシハ。おまえたちに任せる」
「はっ♡」
「承知いたしました☆」
「張の身辺を洗え。何に心を奪われているのか、必ず探り出すのだ」
翌日、二人の少年は宮女に化け、張の後宮に潜り込んだ。無邪気な童顔の奥に、蛇のような観察眼を隠して——。
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