第7話 猫娘憔悴

張の心は、もはや燕王えんおう朱棣しゅていの威光に照らされることはない。桂に振られて以来、その魂は深い闇の底に沈み、日々涙に暮れるばかりであった。心はといえば、遥か高麗こうらいの地にて剣を振るう静謐せいひつなる男のもとへと飛び去り、二度と戻ることはないのである。

思い返せば、燕王えんおうとの日々は今となっては遠い昔のことのように感じられた。あの頃は、朱棣しゅていの突然の愛情表現にも、ある種の愛らしさを感じていた。

「エーイ♡」

燕王えんおうは決まって張の後ろから現れ、その豊かな胸を揉むように抱きしめるのが常であった。それが彼なりの挨拶であり、愛情表現であった。張は最初こそ驚いたものの、次第にその無邪気さに慣れ親しんでいった。

「あー、たまんねぇ」

朱棣しゅていは興奮気味に張の胸の谷間に顔を埋め、まるで子どものように無邪気に喜んでいた。その姿は確かに愛らしく、憎めないものであった。張も当時は微笑ましく思い、彼の頭を優しく撫でてやったものだ。

しかし、それは明らかに恋愛感情ではなかった。張にとって朱棣しゅていは、愛すべき弟のような存在であり、保護欲をかき立てる相手でしかなかった。
宮廷の女性たちは皆、張が数多の男性と戯れているのではないかと噂していたが、実際のところ、張が知る男性は燕王えんおうただ一人であった。

張には確固たる好みがあった。弱々しく、見込みのない男性を生理的に受け付けることができなかった。強さと威厳を兼ね備えた男性にのみ、心動かされるのであった。
燕王えんおうは確かに権力者であったが、張の前では無邪気な少年のような一面を見せるため、どうしても男性として見ることができなかったのだ。

「桂さま……どうして……悲しいニャア〜」

今となっては、あの静謐せいひつ強靭きょうじん高麗こうらいの男性、桂のことしか考えられない。夜毎、張は絹の枕を涙で濡らしながら、ただひたすらに桂の面影を追い求めた。己が身を慰めようとしても、涙が頬を伝って落ち、何もかもが虚しく感じられる。宮女が何やら問いかけてくるが、まるで聞こえぬかのように灯火を消し、闇の中に身を沈める。

「張さま、お膳をお下げしてもよろしゅうございますか」

「ごめんね、何も食べたくないニャ……」

張はまた新たな涙を流した。箸にも触れぬ膳を見て、宮女たちは顔を見合わせる。

「張さま、少しでもお召し上がりにならないと、お体に障ります」

「桂さま……」張は呟くように言った。「桂さまは……もう私のことなんか……ニャア…ニャアアアッ!」

言葉の途中で嗚咽おえつが漏れ、張は袖で顔を覆った。その様は、まるで溺れゆく者が最後の藁にすがるが如くであった。宮女たちは困惑を隠せずにいた。

一方、燕王えんおうは張の変化に戸惑いを隠せずにいた。いつものように後ろから抱きしめようとしても、張は身をひるがえして避けるようになった。あの愛らしい「エーイ♡」の挨拶も、今では空しく響くばかりであった。

「張よ、何故そのように冷たくするのだ」

朱棣しゅていは張の手を取ろうとしたが、張は静かに手を引いた。

「申し訳ございません、燕王えんおうさま。体調が……」

張の声は震えていた。朱棣しゅていに対する情はあったが、それは兄弟愛きょうだいあいのようなものであり、異性としての情熱とは程遠いものであった。桂という強い男性を知った今、その差は歴然れきぜんとしていた。

やがて数日が過ぎた頃、燕王えんおうの疑念は行動となって現れた。

「張がずっと月の障りだと申すのは、胡散臭いぞ」

朱棣しゅていは眉をひそめ、側近そっきんに命じた。

内医局ないいきょくの女医を遣わせ。必ず診察させよ」

内医局ないいきょくの女医は、戦々恐々せんせんきょうきょうとして張の寝宮しんぐうへと足を向けた。張は最初こそ頑なに拒んだ。

「診察したくないニャア。ただの長引く生理ニャ!」

張の声は涙で震えていた。

「されど張さま、燕王えんおうさまの御命にて参りました。どうか」

女医が熱を測り、脈を診るうちに、張の顔色は次第に青ざめていく。張の頬には涙の跡が幾筋も残っていた。やがて女医が小声で尋ねた。

「張さま……もしかして、お心に何か」

その時、張の唇が震え、また新たな涙がこぼれ落ちた。心の奥底から絞り出すような声で言った。

燕王えんおうとエッチしたくないニャ〜、あの人は弟みたい。そもそも男として見たこと一度もなかったニャ!惰性で結婚しただけニャ!向こうが一方的に私を好きなのニャ!」

張の声は涙で途切れがちになった。燕王えんおうの無邪気な愛情表現を思い出すと、余計に胸が痛んだ。あの「エーイ♡」という挨拶も、「あー、たまんねぇ」と言いながら胸の谷間に顔を埋める姿も、今では全てが重荷に感じられた。

「戯れるのもう嫌ニャ!あの人は確かに愛らしいけれど、私が求める男性の強さがないニャ!」

この一言が、全てを破綻させた。女医は血の気を失い、とにかく、その場を辞することにした。

彼女が向かったのは、後宮の主たる徐の許であった。

「徐さま、大変なことが」

女医は震え声で事の次第を報告した。張が燕王えんおうを弟のように思っていること、男として見ることができないと告白したことを詳細に語った。

徐は静かに茶をすすり、しばらく沈黙した後、まるで何事もなかったかのように言った。

「素直に私を頼ってくれて、ありがとう」

「しかし徐さま、これは」

「張が燕王えんおうを男として見ていないと?」

「はい……弟のようだと……もうまじわることはできないと」

女医は困惑した表情を浮かべた。

「どうすれば良いでしょうか。燕王えんおうさまに正直に」

「いえ。誰にも口外せぬこと。燕王えんおうには心労による下血げけつとでも伝えよ。病ではないが、深刻な心の問題を抱えていることは確かでしょう。燕王えんおうをこれ以上混乱させぬよう、静かに処理すること」

「承知いたしました。しかし、張さまの心変こころがわりの原因は」

「それこそが問題の核心でしょう。何かが彼女の心を変えたのです」

女医は深々と頭を下げ、退出していった。

徐はひとり残され、ため息を吐いた。彼女の脳裏には、かつて燕王えんおうにも不貞の影があったことが蘇っていた。そういうのは理性で抑えがたいことも彼女は熟知していた。

「面倒なことになりましたね……真っ黒だとは思うが……彼女が誰に熱を上げているのか、調べさせましょう」

数刻後、燕王えんおうの耳にその報が届いた。

張妃ちょうひは大病ではございませんが、心労により、しばらく休息が必要かと」

それを聞いた朱棣しゅていは、ぽろぽろと涙をこぼした。

「あーよかった!大病かと思ったよぉ(泣)」

彼の心には、張への純粋な愛情があふれていた。あの「エーイ♡」の挨拶も、張への愛しさの表れであった。張の豊かな胸に顔を埋めるあの瞬間こそが、朱棣しゅていにとっての至福の時であったのだ。

徐は扇を手に取り、二人の幼い宦官を呼び寄せた。馬三宝まさんぽうとイシハ——いずれも利発な少年である。

馬三宝まさんぽう、イシハ。おまえたちに任せる」

「はっ♡」

「承知いたしました☆」

「張の身辺を洗え。何に心を奪われているのか、必ず探り出すのだ」

翌日、二人の少年は宮女に化け、張の後宮にひそり込んだ。無邪気な童顔どうがんの奥に、蛇のような観察眼を隠して——。

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