桂が張玉邸の門をくぐったとき、空気はすでに重く張り詰めていた。誰もが言葉を失い、息を詰め、ただ来たる瞬間を待っているような沈黙。庭の風でさえ凍りついたように感じられた。
背後には燕王の正妻・徐、さらに宦官見習いの少年ふたり――馬三宝とイシハが従っていた。幼い影が桂の長身に寄り添うさまは、奇妙な緊張と安堵の入り混じる光景だった。
屋敷の中庭に踏み込むや否や、猫娘、張が駆け出してきた。
「桂さま!」
その声音には、歓喜と涙、そして狂おしいほどの決意が宿っていた。
だが桂はその身体を受け止めず、無言で静止した。
「やめろ。俺はお前を娶ることはできん」
突き放された張は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。泥に頬をつけても気にせず、呻くように叫ぶ。
「それでも……それでもいいニャ! 桂さまのためなら……私はすぐ死んでもいいニャ!」
桂は唇を結び、低く声を落とした。
「私は……あの寵姫の死を忘れていない。愛とは命を預かることだ。私のそばに来た女は必ず命を落とす。そんな道を歩ませるわけにはいかん」
張は顔を歪め、必死に言葉を絞り出す。
「でも……桂さまに愛されず、醜く年老いて死ぬくらいなら……短くても、桂さまの側で死にたいニャ……!」
愛と死を同列に置く叫びに、桂は言葉を失った。
そのとき、父親の張玉が声を荒げた。
「いい加減にしろ! お前の目は、もう娘のものではない!」
怒りとも悲しみともつかぬ震えがその声に混じっていたが、娘には届かない。
「死んだほうがマシニャ……」
張玉は力尽きたように座り込んだ。その背中は沈む夕陽に焼かれ、哀れな影を落としていた。
徐が一歩、前に出た。
「……彼女は本当に死にますよ」
冷ややかな声音。観察する眼差しは、情愛を挟まず、生と死の境目だけを測る天秤のようだった。
「桂様。あなたは拒絶によって彼女を守ろうとしている。けれど、彼女にとってあなたからの拒絶こそが“死”なのです。生き延びさせるために突き放しても、その瞬間に彼女の心は潰える。つまり、守るという名のもとに殺しているのと同じこと」
その言葉は鋭利な刃だった。彼女は涙も怒声もなく、ただ“現実”だけを突きつけた。
桂の拳がわずかに震えた。重い道徳と愛情に引き裂かれそうになりながら、答えを出せずにいる。
そのとき、小さな声が場を破った。
「……ぼくたちは、桂様が張様を妻にすべきだと思います!」
宦官見習いの少年ふたりが声を揃えた。幼い理屈のない直感。しかし純粋だからこそ、人の命の核心を突いていた。
場が静まり返る。
そして――燕王がよろめき、そのまま地に崩れ落ちた。
「燕王殿下!」
駆け寄る声。朱棣は口元に泡を浮かべ、四肢を痙攣させていた。完治したかと思われていた心因性の癲癇発作だった。
桂の耳に、遠い記憶を引き裂くような声が蘇っていた。
――幼き日の朱棣。応天府の広場。不貞を働いた女が群衆の前で処刑される光景。
「罪人だ!」
「穢れを祓え!」
熱狂する大人たちの罵声。石が飛び、女の血が砂に散った。
幼い朱棣はその場で発作を起こし倒れた。何故人が人をこうまで憎むのか理解できなかった。彼の世界にはまだ、愛や不貞という概念はなかった。ただ、誰かが泣き、誰かが笑い、そして一人が殺される理不尽だけがあった。
――その記憶が、張の叫びと桂の拒絶に重なり、彼の心を再び裂いたのだ。
意識の奥底で、燕王は幼い頃の自分と対峙する。
金髪碧眼、無垢だった頃の自分が囁く。
「なんでみんな……争っているの?桂兄上の背景に問題があるなら、 あなたの妻として籍を置いたまま、猫娘さんを桂兄上に渡せばいいじゃないですか……形式はあなたの妻。でも本当は⋯心は桂兄上にある。それじゃ、だめなんですか……?」
それは子どもの論理だった。だが命を救うためには誰よりもまっすぐな答えだった。
やがて意識を取り戻した朱棣のそばには、張輔の幼い顔があった。
「燕王様……ぼく、考えたんです」
そして、幼い頃の朱棣と同じ意見を述べた。
「……ああ、俺も同じことを考えてたよ」
朱棣はしばらく黙し、涙に濡れた目を閉じた。
何が正しいのか、誰が間違っているのか。もはや答えはない。
だが命を救うというただ一つの価値の前に、それまでの正義も秩序も色褪せていった。
その夜、誰もがそれぞれの“正しさ”を抱えたまま、痛みを分かち合うように、少しずつ現実へと歩み寄っていった。