夜の帳が北平に落ちるころ、王府はいつにも増して静かだった。城の石壁が冷たく息を吸い、深いため息を地に吐き出すような、そんな気配に満ちていた。
その奥、燭の火だけが揺れる一室に、ふたりの影が向き合っていた。
ひとりは桂、高麗よりの将軍。
もうひとりは徐氏。燕王の正妻にして、北平の奥政を掌どる女である。
桂は座している女の顔を見た瞬間に、心中でただ一言、呟いていた。
——うわぁ…ないな…
あまりにストレートな第一印象である。いや、率直すぎる感想とでも言うべきか。顔の凹凸に乏しく、目は小さく、鼻は幅広いが低く、どこからどう見ても「美人」の対極にいる顔立ちだった。もうちょっとこう、なんというか、オブラートに包んだ感想を持とうと頑張ったが、脳内が「あ、しまった」でいっぱいになってしまった。
桂は慌てて表情を整えようとしたが、時すでに遅し。呆気に取られた表情が顔に張り付いていた。
だがその刹那、徐の口元に微かな笑みが浮かんだ。
「桂様、今『うわぁ』って思いましたね?ホッホッホ」
乾いた笑いだった。そこには愛想も虚飾もない。ただ、自嘲を超えた一種の透徹した達観があった。
「あ、いえ、その……」
桂は慌てふためいたが、徐は手を振って制した。
「お気になさらず。私は鏡を見慣れておりますから。張とは違い、私は”武器”を持っておりませぬ故……むしろ桂様が少し安堵なされたご様子。ホッホッホ」
桂は苦笑するしかなかった。この女、ただ者ではない。言いようのない安堵感があった。
「張殿から寄せられる好意に……私は揺れております」
「望まれてしまっている。だが私は……すでに、家庭という戦場で敗北を重ね、帰る家を忌まわしく思っている始末です。到底受け入れられる余地がない」
桂の言葉は、まるで己の内部を静かに解剖するかのようであった。
「いずれ、私は消えるべきでしょう。火真殿の手腕があれば、燕王も国境防衛を成し遂げられるはず」
徐はそれを否定しなかった。まるでその結論を予見していたように、淡々と頷いた。
「張の心が燕王にないのであれば……彼女も、燕王も、どちらも幸せにはなれません」
桂の吐くようなため息が、部屋の空気に消えていった。
「私は来月、この地を離れます。……それが最後の務めです」
「北平の平和、我々のために尽くされたことに深く感謝申し上げます」
徐の声には礼節と同時に、計算の影が見えた。桂は遠い目をしたまま、ひとこと呟く。
「……それだけをやり遂げたい」
そして音もなく立ち上がり、疲労と諦観を背負って、部屋を去った。
部屋に残されたのは、燭の火だけであった。
その翌朝のことだった。女官控えの間で、罵声が響いていた。
「男に媚びることしかできないくせに……この顔だけの無能……!」
醜い女官が、美しく若い女官の髪を掴んでいた。涙を流し、顔を伏せる美女に、醜女は憎悪と嫉妬をぶつけていた。
「おやめなさい」
その声に、室内が氷のように冷えた。
音もなく現れたのは徐。女たちは凍りついたように跪いた。だが、醜い女官は口を尖らせて言った。
「私は……ただ、不公平と思ったのです」
徐は一歩踏み出した。その瞳に、氷よりも冷たい敵意が宿った。
「不公平?笑わせるな」
徐の声は、刃のように鋭かった。
「お前は『不公平』などという言葉を口にする資格もない。お前がしているのは、自分の醜さを他人のせいにする、最も卑しい行為だ」
「お前は生まれた時から、何一つ努力せずに生きてきた。美しくない自分を受け入れず、磨こうともせず、ただ美しい者を憎むことで自分を慰めてきた」
徐の言葉は容赦なく続いた。
「お前と彼女の違いは、顔だけではない。あの子は美しさという武器を持って生まれ、それを磨き続けている。お前は何も持たずに生まれ、何も得ようとしなかった」
「理不尽?ああ、世の中そのものが理不尽だ。だが、理不尽に立ち向かうか、理不尽に甘えるか——その選択だけは、お前にも与えられていた」
女の顔が青ざめた。だが徐は止まらない。
「お前は『女』として生まれたが、『女』になることを放棄した。誰にも愛されない理由を、顔のせいにし逃げ続けた」
「本当に醜いのは、お前の顔ではない。お前の心だ。美しい者を引きずり下ろすことでしか、自分を保てない——その腐った根性こそが、お前を真に醜くしている」
女官の顔が怒りと羞恥で歪んだ。口を開きかけたその瞬間、徐の声がさらに冷えた。
「無いなら、磨き、創り上げよ。才覚、勤勉、忠義で勝て。それができなければ——美しい者を恨みながら、一人朽ち果てろ」
静寂。
「……美は、天が与えた才能。”傾国“という言葉がそれを証明する。一人で国を滅ぼす力を有する者、それが真の女だ」
「お前がどれほど反吐を吐こうと、あの子の顔は兵器だ。お前がそれを理解できず、嫉妬に身を任せるなら、お前は一生、女の皮を被った化け物のまま終わる」
醜女は完全に打ちのめされていた。誰も口を挟めない空気の中で、徐は美しい女官に目をやり、ふっと優しく——しかし冷たいままに言った。
「泣くな。お前は美しい。堂々としておれ」
それだけ言い残し、徐は静かに去っていった。
その姿を、障子の陰で見ていた馬三宝が、ぽつりと呟いた。
「……あの方は、まるで鋼鉄だな」
「いや、違う」
イシハがぽそりと返す。
「氷だ。決して溶けない、透き通った氷のようだ」
徐という女の真価は、美しさではなかった。だが、その冷酷な真実だけが、誰よりも”信じられる”女だった。
そして桂は、だからこそ彼女に心を明かした。——すべての真実を知る者は、必ずしも美しいとは限らない。
だが、彼女には美貌よりも恐ろしい、理があった。