第10話 氷の女の理

夜のとばり北平ほくへいに落ちるころ、王府はいつにも増して静かだった。城の石壁が冷たく息を吸い、深いため息を地に吐き出すような、そんな気配に満ちていた。

その奥、燭の火だけが揺れる一室に、ふたりの影が向き合っていた。

ひとりは桂、高麗こうらいよりの将軍。

もうひとりは徐氏じょし。燕王の正妻せいさいにして、北平の奥政をつかさどる女である。

桂は座している女の顔を見た瞬間に、心中でただ一言、呟いていた。

——うわぁ…ないな…

あまりにストレートな第一印象である。いや、率直すぎる感想とでも言うべきか。顔の凹凸に乏しく、目は小さく、鼻は幅広いが低く、どこからどう見ても「美人」の対極にいる顔立ちだった。もうちょっとこう、なんというか、オブラートに包んだ感想を持とうと頑張ったが、脳内が「あ、しまった」でいっぱいになってしまった。

桂は慌てて表情を整えようとしたが、時すでに遅し。呆気に取られた表情が顔に張り付いていた。

だがその刹那、徐の口元に微かな笑みが浮かんだ。

「桂様、今『うわぁ』って思いましたね?ホッホッホ」

乾いた笑いだった。そこには愛想も虚飾もない。ただ、自嘲を超えた一種の透徹した達観たっかんがあった。

「あ、いえ、その……」

桂は慌てふためいたが、徐は手を振って制した。

「お気になさらず。私は鏡を見慣れておりますから。張とは違い、私は”武器”を持っておりませぬ故……むしろ桂様が少し安堵なされたご様子。ホッホッホ」

桂は苦笑するしかなかった。この女、ただ者ではない。言いようのない安堵感があった。

「張殿から寄せられる好意に……私は揺れております」

「望まれてしまっている。だが私は……すでに、家庭という戦場で敗北を重ね、帰る家を忌まわしく思っている始末です。到底受け入れられる余地がない」

桂の言葉は、まるで己の内部を静かに解剖するかのようであった。

「いずれ、私は消えるべきでしょう。火真殿の手腕があれば、燕王も国境防衛を成し遂げられるはず」

徐はそれを否定しなかった。まるでその結論を予見していたように、淡々と頷いた。

「張の心が燕王にないのであれば……彼女も、燕王も、どちらも幸せにはなれません」

桂の吐くようなため息が、部屋の空気に消えていった。

「私は来月、この地を離れます。……それが最後の務めです」

「北平の平和、我々のために尽くされたことに深く感謝申し上げます」

徐の声には礼節と同時に、計算の影が見えた。桂は遠い目をしたまま、ひとこと呟く。

「……それだけをやり遂げたい」

そして音もなく立ち上がり、疲労と諦観ていかんを背負って、部屋を去った。

部屋に残されたのは、燭の火だけであった。

その翌朝のことだった。女官控えの間で、罵声が響いていた。

「男に媚びることしかできないくせに……この顔だけの無能……!」

醜い女官が、美しく若い女官の髪を掴んでいた。涙を流し、顔を伏せる美女に、醜女しこめは憎悪と嫉妬をぶつけていた。

「おやめなさい」

その声に、室内が氷のように冷えた。

音もなく現れたのは徐。女たちは凍りついたようにひざまずいた。だが、醜い女官は口を尖らせて言った。

「私は……ただ、不公平と思ったのです」

徐は一歩踏み出した。その瞳に、氷よりも冷たい敵意が宿った。

「不公平?笑わせるな」

徐の声は、刃のように鋭かった。

「お前は『不公平』などという言葉を口にする資格もない。お前がしているのは、自分の醜さを他人のせいにする、最も卑しい行為だ」

「お前は生まれた時から、何一つ努力せずに生きてきた。美しくない自分を受け入れず、磨こうともせず、ただ美しい者を憎むことで自分を慰めてきた」

徐の言葉は容赦なく続いた。

「お前と彼女の違いは、顔だけではない。あの子は美しさという武器を持って生まれ、それを磨き続けている。お前は何も持たずに生まれ、何も得ようとしなかった」

「理不尽?ああ、世の中そのものが理不尽だ。だが、理不尽に立ち向かうか、理不尽に甘えるか——その選択だけは、お前にも与えられていた」

女の顔が青ざめた。だが徐は止まらない。

「お前は『女』として生まれたが、『女』になることを放棄した。誰にも愛されない理由を、顔のせいにし逃げ続けた」

「本当に醜いのは、お前の顔ではない。お前の心だ。美しい者を引きずり下ろすことでしか、自分を保てない——その腐った根性こそが、お前を真に醜くしている」

女官の顔が怒りと羞恥しゅうちで歪んだ。口を開きかけたその瞬間、徐の声がさらに冷えた。

「無いなら、磨き、創り上げよ。才覚、勤勉、忠義で勝て。それができなければ——美しい者を恨みながら、一人朽ち果てろ」

静寂。

「……美は、天が与えた才能。”傾国けいこく“という言葉がそれを証明する。一人で国を滅ぼす力を有する者、それが真の女だ」

「お前がどれほど反吐へどを吐こうと、あの子の顔は兵器だ。お前がそれを理解できず、嫉妬に身を任せるなら、お前は一生、女の皮を被った化け物のまま終わる」

醜女しこめは完全に打ちのめされていた。誰も口を挟めない空気の中で、徐は美しい女官に目をやり、ふっと優しく——しかし冷たいままに言った。

「泣くな。お前は美しい。堂々としておれ」

それだけ言い残し、徐は静かに去っていった。

その姿を、障子しょうじの陰で見ていた馬三宝まさんぽうが、ぽつりと呟いた。

「……あの方は、まるで鋼鉄だな」

「いや、違う」

イシハがぽそりと返す。

「氷だ。決して溶けない、透き通った氷のようだ」

徐という女の真価は、美しさではなかった。だが、その冷酷な真実だけが、誰よりも”信じられる”女だった。

そして桂は、だからこそ彼女に心を明かした。——すべての真実を知る者は、必ずしも美しいとは限らない。
だが、彼女には美貌びぼうよりも恐ろしい、理があった。

←第9話  第11話→  目次へ戻る 🏠️HPへ戻る

error: Content is protected !!