社会は個人の幸福を許さない。
倫理とは、時に暴力である。
燕王は子供のころ、そういうものに憤っていた。
正しさとは何か。
正しいという名の下に、人を殺し、心を壊すことが正義なのか――。
ふと、過去の記憶が甦る。
まだ彼が幼い頃、応天府の広場で、ある正妻が不貞を理由に磔刑に処されるのを目撃した。
夫は冷笑を浮かべ、妻を「恥」と呼んで引き裂いた。
群衆は石を投げ、血を求めて熱狂した。
その瞬間、朱棣の幼い身体は痙攣し、口から泡を吐いた。
初めての癲癇発作。あの日、彼の心に深い裂け目が刻まれた。
(俺は……ああはなりたくない)
(愛する女を、殺す男にはなりたくない)
時を経て、彼は本当に、そうはならなかった。
傷ついたのは自分だけだった。
張――猫娘は、形式上は燕王の妃である。
だが実態は、桂の妻だった。
すべてを失ったわけではない。
彼女は燕王の妃であり続け、法と体面は保たれている。
けれど魂と愛は、桂のもとにある。
朱棣は、自分が壊れていく音を聞きながら、それでも思った。
(これが……俺の愛なんだろう)
(二人とも、俺にとって本当に大事だったんだ)
桂は、かつて心癒されたことがほとんどない人間だった。
生まれ持っての出自――高麗にあって異民族の血を引くがゆえ、冷たい差別と不信の目に晒されてきた。
愛しい寵姫は短命に終わり、胸の奥に虚しさだけを残した。
彼はただ静かに生きてきた。
怒らず、笑わず、語らず。
剣を執り、国境を守り、命を差し出してきた。
そんな彼に、真正面から「好き」と言ってくれ、ためらいなく愛を投げてきた存在。
それが、猫娘だった。
桂は思っていた。
(俺なんかには、もったいない)
それでも、彼女は微笑む。
桂の胸の中で丸まり、「にゃあ」と甘えてくる。
その重みが、冷たく固まった彼の胸を少しずつ溶かしていった。
徐は、すべてを俯瞰していた。
張玉は、娘の激情に目を覆いながらも、安堵していた。
誰も死ななかった。
褒められた解決策ではない。
だが、それでも――
「……よかった」
徐は静かにそう呟いた。
その声は凍った空気をわずかに和らげた。
張玉もまた目を細め、遠くの庭を見やった。
そこでは、猫娘が桂に膝枕をしていた。
夕映えの中で、ふたりはひとときの安らぎを分け合っていた。
そして、夕暮れの回廊で。
張玉の息子、臆病な張輔が勇気を振り絞って桂に近づいた。
「……あの」
桂が目を向けると、少年は一瞬目を逸らしかけたが、すぐに言葉を吐き出した。
「ぼくも……あなたのようになれますか?」
桂はわずかに驚いたように目を見開いた。
そして、ふっと、穏やかな微笑みを浮かべた。
その笑顔を、張輔は生涯忘れることはなかった。
燕王府の黄昏は、静かに深まっていった。
――完――