なぜ「親身に寄り添う人」ほど軽んじられるのか
困ったとき、親身になってくれる人は誰もいなかった。
私が直面したトラブルは「子どもの預け先がなく、せっかく受かった学校を辞退せざるを得ない」というものだった。
夫は「変な人に子どもを預けたくない」という考えで反対した。
もちろん子の安全を軽視するつもりはなかったが、その言葉は「自分は協力する気がまったくない」という宣告のように響いた。孤立無援とはまさにこのことで、なぜ自分ばかり?と考えると社会構造への怒りも湧いてきて言いようのない怒りと閉塞感に襲われた。
そんな中、意外なところから救いの手が差し伸べられた。
学校側が「そういう事情(よくあること)で辞めるのは本当にもったいない。こういう解決策がありますよ」と、わざわざメールを送ってくれたのだ。
日本ではまず考えられないような神対応であった。
「あなたの事情を理解している」と言われただけで、涙が止まらなかった。
結局、人を救うのは“完璧な答え”ではなく、“寄り添おうとする姿勢”なのだと痛感した。
自分だけが「頑張れ」で済まされる現実
私はこれまで、他人の問題に対してはとことん解決策を模索し、寄り添い、ときには徹夜までして支えてきた。問題を放っておけない性分だからだ。
しかし、いざ自分が困ったとき――返ってくるのは「頑張ってね〜」の一言だけである。
たとえばビザ更新。私は友人に付き添い、役所での手続きや交渉まで一緒にした。
だが、私が困ったときには、やはり「頑張ってね〜」で終わった。
心底がっかりした。
この出来事をきっかけに、私は複数の人間関係を一気に切り捨てた。
ドアスラム決行。もう二度と開けることのない心の扉を、勢いよく閉める行為だ。
「親身な人」ほど雑に扱われる理由
感情労働におけるこの“理不尽な現象”は、昔から何度も目にしてきた。
以前働いていたドイツのAltenheim(高齢者養護施設)では、一番親身に動く人ほどぞんざいに扱われていた。
たとえば――
- 家では長女が一番負担を背負って介護しているのに、老人本人は長女にだけ辛く当たる。
- 逆に、たまに顔を出す息子の前では、まるで人格者のように振る舞う。
そんな「怪現象」を数え切れないほど見てきた。
だから私は思う。最初から塩対応しておいたほうが、むしろ健全なのではないかと。
人は「楽しいことだけ共有できる相手」を選ぶ
結局、人は辛いときに寄り添ってくれる相手を軽んじ、問題が解決した途端、何事もなかったように“楽しいことだけ共有できる相手”のもとへ戻っていく。
- 辛いときに支えてくれた人 → 問題解決したら用済み
- 見て見ぬふりをした人 → 再び輪の中心に戻る
そして、最初に「解決したよ!」と報告するのは後者である。
この構造を何度も見てきた。そのたびに屈辱を感じ、私の中で信頼は完全に消え去った。そして、その人は即座に「ドアスラム予備軍」入りとなる。
結論:手を差し伸べる気はもうない
世の中、調子のいい八方美人ばかり。
二度と、そんな人に手を差し伸べる気はない。
私自身、漫画の中でも「人が良すぎる主人公が損をする構図」を描いたことがあるが、やはり現実も同じだった。
ただし私には一つの強みがある。
それは見切りつけるのが一瞬であること。
切るときには一切の躊躇も情もない。
それが、私の人付き合いのスタンスである。
👉 読んでくださっているあなたはどうだろうか。
「寄り添う人ほど軽んじられる」という現象を経験したことはないだろうか。
ドアスラムしないと身が持たない。そいつの感情のゴミ箱になり私が真っ黒にされてしまう。
SNSやって悟ったのが糞ほどくだらんということだ。時間の無駄、二度とやらん。