永楽王朝1話「残骸」

永楽王朝 第一話「残骸」

——永楽二十二年、四月 紫禁城・乾清宮

春の陽光は厚い障子に遮られ、ほとんど室内には届かない。

かすかに漂う沈香の匂いと、老いた男の浅い寝息だけが、静寂を満たしていた。

永楽帝・朱棣。

かつて北平の燕王として自由に笑い、馬を駆り、戦場を駆け抜けた男は、 今、深い宮の奥で、疲れ果てた老人の姿で眠っていた。

その枕元に、韓麗妃が立っていた。

十九歳。高麗から献上された娘。 茶色がかった髪、大きな瞳。 それが彼女を後宮に迎えた決め手だったと、噂されていた。

彼女はただ、おどおどと立ち尽くしていた。 手の置き場に困り、声をかけていいのか、このまま黙っているべきか。 細い肩が、小さく震えている。


二日前 奉天殿

「夏原吉を、収監せよ」

皇帝の声は、乾ききっていた。

朝堂が凍りつく。

戸部尚書・夏原吉は、静かに膝をついた。

「陛下……申し上げたいことがございます」

「……」

「たとえ収監されようと、臣は申し上げます。  第五回目の北征は無用の戦です。  民は疲弊し、国庫は空に近づいています。  どうか、ご再考を――」

「黙れ」

朱棣はゆっくりと立ち上がった。 その瞳は、もはや誰の言葉も受け入れない、深い虚無に覆われていた。

「……死刑だ」

朝堂に、重い沈黙が落ちる。 誰も声を発さなかった。

ただ、夏原吉は膝をついたまま、微かに微笑んだように見えた。

――これで、少しの間、この国の財政は保てる。  自分の命と引き換えに、陛下の暴走を止められるなら、それでいい。

彼は一言も発さず、衛士に連行された。


現在 乾清宮

その一部始終を、皇太孫・朱瞻基は柱の影から見ていた。

(祖父様は、もう自分を止められない)

彼は静かに拳を握りしめた。

(ならば、私が止める。私が、なんとかする)

「……韓麗妃」

低い声がした。

振り返ると、そこに皇太孫・朱瞻基が立っていた。

二十一歳。この老人の孫であり、次代を担う者。

彼は祖父の寝顔を一瞥してから、彼女に向き直った。

「疲れたろう。寝ていないのではないか」

その声は、皇帝の孫というより、同じ宮廷に生きる一人の人間として、 不思議な温かさを帯びていた。

彼女は初めて、肩の力を抜いた。

「……部屋に戻って、休みなさい」

韓麗妃がほっと息をつき、踵を返した、その瞬間――

朱瞻基が、その細い手首を掴んだ。

「――後で、来る」

彼女の頬が一瞬で朱に染まった。

何も言わず、うつむいて走るように去っていく背中を、 朱瞻基は穏やかな目で見送った。

そして再び、眠る祖父に向き直る。

「……お疲れのようだ」

寝息は浅く、時折眉を寄せ、悪夢を見ているかのようにまぶたが震える。

「眠っておられる時間が、だいぶ増えましたね」

誰に言うでもなく、彼は呟いた。

この体調で、親征は無理だろう。 ――そもそも、この老人は、いつまでこの世にいられるのか。

その時、遠くから早足の靴音が近づいてきた。

「皇太孫、俺以外にも召集をかけたのだな」

現れたのは、周王・朱シュク。

朱棣の弟。かつて病弱で「成人できない」と言われた男が、 今は白髪交じりの初老の医師となっていた。

「叔父上……」

朱シュクは何も言わず、兄の手首を取った。

脈を確かめるように、指を滑らせる。

しばらくの沈黙。

彼の指が、わずかに震えた。

そして、ゆっくりと――

朱シュクの目から、涙がこぼれ落ちた。

「……兄上」

声が、掠れる。

「俺のせいで……俺のせいで、兄上は、こんなに……」

彼は、兄の手を握ったまま、その場に崩れるように膝をついた。

「幼い頃、俺が『皇太子になりたい』なんて言わなければ……兄上は燕王にならずに済んだのに」 「俺が弱くなければ、兄上は俺を守ろうとしなかったのに」 「俺が……俺が、兄上の人生を、狂わせたんだ……」

声を上げて、泣いた。

六十を過ぎた男が、幼子のように、兄の前で、泣き崩れた。

朱瞻基は、何も言わなかった。 ただ、叔父の背中に、静かに手を置いた。

しばらくして、朱シュクは、涙を拭った。

「……すまない。医者として、失格だな」

彼は、再び、兄の脈を取る。

そして、静かに、告げた。

「……兄上の体は、限界だ」

諦念と、医師の冷静さ。 そして、幼い頃この兄に守られた者としての哀しみが、声の端に滲んでいた。

「もう、これ以上、兄上は頑張れない」

目の下の黒ずみ。 弱り切った脈。 老いてなお、決して衰えぬはずだったこの男の、明らかな「終わり」。

朱瞻基は静かに頷いた。

「それを見越して、親しい方たちを呼びました」


続々と集う面々。

まず現れたのは、蜀王・朱椿。

臆病で、レッサーパンダに化けると評判のこの弟は、 兄の寝顔を見るなり、目を潤ませた。 その後ろには藍玉の娘――派手めな美貌の彼女と、その息子たち。 そして、蜀の地で飼っているというパンダが一匹、のっそりと座っていた。

「……にゃ」

六十を過ぎても語尾が「ニャア」の張貴妃と、その娘。 彼女はこの宮廷で最も自由に笑い、振る舞うことを許された女だ。

朶顔三衛の元主・朱権。

そして――

「……朝鮮王、李芳遠、参上いたしました」

黒い冠、ゆったりとした服。

老境に入ったその男は、しかし背筋を伸ばし、まっすぐに前を見据えていた。

朱瞻基は深く頷いた。

「よくぞ、参られました」


永楽帝は、目を覚まさなかった。

李芳遠はしばらく、その寝顔を見つめていた。

この男の人生は、どれだけの苦しみを積み上げてきたのか。 父・李成桂が「うむ」「そうか」と無条件に愛した男。 かつて山の上で全裸で立ち、「お前もやるか?」と笑った燕王。

その燕王は、もういない。

ここにいるのは、その残骸だ。

それでも彼は、朱棣に語りかける。

「……聞いておられないかも知れませんが」

何かを伝えなければならないわけではない。 ただ、この声を、この男に届けたかった。

「あなたは、私にとって――」

その時だった。


永楽帝の意識は、深い闇の中に沈んでいた。

そこは、彼の脳内。

三人の自分が、同じ空間に別々の姿で存在している。

チビ朱棣――十歳のままの少年。 隅に縮こまり、大きな瞳を瞬かせて、不安そうに周囲を見回している。

燕王――三十代の自由な男。 そのチビ朱棣を抱きかかえるように立ち、かつての自分を守っている。

永楽帝――玉座に凭れかかり、虚ろな目で虚空を見つめている。


「帝、お前、死ぬぞ」

燕王が言った。

その口調は軽かった。 茶館で藍玉と馬鹿話をしていた頃のように。

永楽帝は答えない。

チビ朱棣が、おずおずと口を開く。

「……陛下は、病気なのかな……」

燕王は小さな頭を撫でた。 かつて李成桂がしてくれたように。

「……もう、疲れたんだろうな」

沈黙が流れる。

永楽帝が、ぽつりと呟いた。

「……燕王」

「何だ」

「俺を、絞め殺してくれ」


空気が、凍りついた。

「何いってんだ、帝」

燕王の声が低くなる。

「俺は、周囲を不幸にするだけだ」 「誰からも望まれない」 「未来も、ない」 「愛も、ない」 「愛してくれた人は、すべて死んだ」

「……」

「お前に、何がわかる」 「俺は、お前の残骸だ」

燕王は、チビ朱棣を強く抱きしめた。

「――ふざけたこと言うな」

その声は、怒りと哀しみと、 そして何より、自分自身へのやるせなさに震えていた。

「チビ朱棣ちゃんが、怖がってんだろ」

永楽帝と、少年の目が合った。

チビ朱棣は小さく息を呑み、燕王の背に隠れた。 その小さな体が、微かに震えている。


脳内に、沈黙が降りる。

チビ朱棣が、突然、口を開いた。

「……棣兄上」

小さな、しかしはっきりとした声。

「もう、陛下は、十分、苦しみました」

燕王は黙って、少年を見つめる。

「俺は、陛下を、楽にしてあげたほうがいいと思う……」

少年は、一呼吸置いた。

「俺は、消えてもいい」


沈黙。

燕王は、何も言えなかった。

――その時、彼は気づいた。

チビ朱棣はかつて、李成桂に救われた。 その「救い」が、燕王という自由を生んだ。

そして今、そのチビ朱棣は、 自分を消すことで、永楽帝を救おうとしている。 「自己犠牲の権化」として。

あの頃と、何も変わっていない。

燕王は、言葉を失った。


その時。

少年の手が、動いた。

どこからか現れた刃物。

チビ朱棣は、それを自分の首に当てた。

「だめだ――!」

燕王が叫ぶ。

しかし、少年の目は、澄んでいた。

――刃が、閃いた。


鮮やかな赤。

チビ朱棣の体が、ゆっくりと崩れ落ちる。

燕王は、その小さな体を抱きとめた。

温かい血が、彼の腕に伝わる。

「……ばか……お前は、何てことを……」

少年の瞳は、もう動かない。

その口元には、かすかな微笑みが浮かんでいた。


永楽帝は、それを見ていた。

無表情で、ただ、見ていた。

「……燕王」

声は、虚ろだった。

「俺を殺せ」

燕王は、チビ朱棣の亡骸を抱いたまま、顔を上げる。

「……もう、お前しかいないんだ」

永楽帝は、ゆっくりと、玉座から立ち上がった。

「俺を、この呪いから、解き放て」


燕王は、永楽帝の前に立った。

二人は、鏡写しのように向かい合う。

同じ顔。 同じ体。 違うのは、その瞳の色だけ。

燕王の手が、永楽帝の首に触れた。

「……すまない」

彼は、絞め殺した。

永楽帝は、抵抗しなかった。 いや、むしろ、安堵したように、その手を受け入れた。

――三人目の朱棣が、ここに、消えた。

脳内に、ただ一人。

燕王だけが、立ち尽くしていた。

足元には、チビ朱棣の亡骸。 腕の中には、永楽帝の亡骸。

彼は、すべてを失った。

――いや。

失うものが、もう何もないだけだ。


その時。

燕王は、ふと、遠くに光を見た。

それは、脳内の闇に、ぽっかりと開いた穴のようだった。

その向こう側に、現実がある。

彼は、その光に向かって、歩き出した。


乾清宮。

李芳遠が、永楽帝の寝顔を見つめていた。

さっきまで語りかけていたが、反応はない。 深い眠りの中にいるらしい。

「……無駄だったか」

彼は、そっと息をついた。

その時だった。

永楽帝のまぶたが、開いた。

李芳遠は、はっと息を呑んだ。

その瞳は、碧く輝いている。

二十年の時を経て、よみがえった、あの色。

「……よぉ、遠ちゃん」

声は掠れていたが、その調子は、軽かった。

かつて茶館で聞いた、あの口調。

李芳遠は、言葉を失った。

「なんで――」

「帝とチビが、死んじまってな」

男は、ゆっくりと体を起こした。

その動作は、老いた皇帝のものではない。 かつて北平で馬を駆った、燕王のものだ。

「残ったのは、俺だけだ」


李芳遠は、その顔を見て、すべてを理解した。

この男は、もう、戻らない。

「……これから、どうするのですか」

燕王は、あっけらかんと答えた。

「最後の親征、やるよ」

「……馬鹿な。あなたの体では――」

「遠ちゃん」

燕王は、ベッドから降りた。

その足取りは、かすかにふらついていた。

「俺はな、この二十年、ずっと閉じ込められてたんだ」

「帝の体の中に、監禁されてた」

彼は、自分の手を見つめた。

「藍玉さんも、桂兄上も、みんな死んじまった」

「でも、最後くらい――」

顔を上げる。

完全に、死を覚悟した顔だった。

「――俺のやり方で、死にてえんだよ」


李芳遠は、何も言えなかった。

何を言っても、この男は止まらない。

それは、二十年ぶりに手に入れた、この男の「自由」だから。

燕王は、軽く手を上げた。

「じゃな、遠ちゃん」

「お前とまた会えて、楽しかったわ」

その背中は、もう、迷っていなかった。


と、その時。

燕王は、ふと立ち止まった。

振り返らずに、言った。

「……なあ、遠ちゃん」

「……何です」

「さっき、俺に話しかけてたろ」

「『聞こえてないかも知れませんが』って」

李芳遠は、息を呑んだ。

「聞こえてたよ」

燕王は、少しだけ、声を柔らかくした。

「……ありがとな」

――その背中が、乾清宮の闇に消えるまで 李芳遠は、ただ、立ち尽くしていた。

涙が、一筋、こぼれ落ちた。


その夜。

皇太孫・朱瞻基の執奏により、夏原吉は獄より出された。

死刑宣告は取り消し。

夏原吉は自宅に戻るや、家族にただ一言。

「……陛下は、おやりになる気か」

その夜、彼は徹夜で国庫の計算をし直した。


翌朝。

乾清宮の前に、一人の女が立っていた。

張貴妃。

六十を過ぎても、その背筋は伸びている。

彼女は、遠くを見つめていた。

そこに、一人の男が歩いてくる。

燕王だ。

彼は、彼女の前で立ち止まった。

「……にゃ」

張貴妃は、それだけ言った。

燕王は、笑った。

「おう、行くぞ」

「……にゃ」


何も言わない。 何も尋ねない。

ただ、彼女は、彼と共に、馬に乗る。

六十年前、若かった頃のように。

拉致られて泣き叫んだ、あの頃のように。


戦場へ向かう、二つの影。

馬上の燕王は、隣を走る張貴妃を見て、思う。

「あの頃と、何も変わってねえな」

張貴妃も、思う。

「このバカ、最後までバカにゃ」


風が、草原を渡る。

彼らは、ただ、前を見ている。


これは、ある男の物語。

明の第三代皇帝・永楽帝。

彼が、何を思い、何を失い、 何を愛したのか。

誰に読ませるためでもない。

六十年前の、ある少年の物語へと、 静かに、遡っていく。

母に愛されず、 「役に立つ子」でしか存在を許されなかった、 一人の少年。

彼は、何を思い、 誰に出会い、 どうやって「永楽帝」になったのか。

第二話へ、つづく――。

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