1370年代は、洪武帝が新しい王朝の秩序を固めるために、服装のルールを次々と定めた時代だった。この時期に、明の基本的な服制の多くが作られている。
服装の目的は、「身分を明確にし、社会の秩序を保つ」ことである。色、素材、模様に至るまで細かく決められ、特に「黄色」と「龍・鳳凰の模様」は皇帝だけのものだった。
年代順に主な規定を見ていこう。
1370年代の服装規定タイムライン
洪武3年(1370年)、文武官を対象に、常朝の公務服として「烏紗帽」「団領衫」「束帯」が制定された。帯の素材で位を区別し、一品は玉、二品は花犀などとされた。庶民については、男女とも金糸刺繍、錦綺、綾羅の使用が禁止され、許される素材は䌷、絹、素紗のみとなった。靴への飾りも禁止され、装飾品は銀のみ許可された(金・玉・真珠・翡翠は禁止)。
洪武4年(1371年)、吏員(下級役人)は黒い盤領衫と四方平頂巾の着用が定められた。
洪武5年(1372年)、一般女性の礼服の色は紫とされ、金糸刺繍は禁止された。袍衫は紫、緑、桃色など淡い色に限定され、帯は藍色の絹布と定められた。
洪武6年(1373年)、庶民の巾の飾り(巾環)に金、玉、瑪瑙、珊瑚、琥珀が禁止された。帽子には頂飾りが禁止され、許される帽珠は水晶、香木のみとなった。
服装の具体的な違い
色による区別として、文武官の公服は一品から四品が緋(赤)袍、五品から七品が青袍、八品・九品が緑袍と定められた。「赤を最高級とする」考え方は明の特徴であり、洪武帝が「明は火徳により天下を取った」と考えたからとも言われる。
模様による区別(補子)として、胸の布「補子」の模様も後に細かく決められた。文官は仙鶴(一品)、錦鶏(二品)、孔雀(三品)など禽(とり)、武官は獅子(一・二品)、虎(三品)、豹(四品)など獣の模様とされ、これが「衣冠禽獣」という言葉の元になった。
職業による区別として特に厳しかったのが、農業と商業の区別である。洪武14年(1381年)には「農民は䌷、紗、絹、布を許すが、商人は絹、布のみ」とされた。さらに「農家でも一人でも商売をしている者がいれば、その家は䌷や紗を着てはいけない」という厳しい規定も設けられた。
庶民の暮らしと服装
素材の制限として、庶民は光沢のある美しい布(綾羅など)を着ることができなかった。許されたのは主に目の粗い「䌷(つむぎ)」や「絹」「素紗」といった、装飾の少ない布地である。
かぶりものについては、庶民の男性は洪武3年(1370年)にそれまでの「四帯巾」から「四方平定巾」という四角い形の巾をかぶるようになった。これは朱元璋が「四方が平定された」という意味を込めて名付けたと言われている。
靴については、庶民は原則としてブーツを履くことが禁止された。これは厳格に守られ、違反者が摘発されることもあったようだ。ただし北方の寒い地域だけは、特例として牛皮の直縫い靴が許された。
まとめ:服装から見える明の姿
1370年代の服装規定は、単に見た目の問題ではなく、洪武帝が理想とした「農本主義」と「身分秩序」を、人々の身体に直接刻み込むための強力な政策だった。
戦乱の世を終わらせ、国を立て直すためには、「誰がどの立場か」が一目で分かる社会を作り、華美な贅沢を戒めて農業に励むことが必要だと考えたのだろう。現代の視点からは窮屈に感じられるが、当時の人々にとっては、この「見える形での秩序」こそが、新しい国家・明の始まりを実感させるものだったのかもしれない。

