SNSで疲弊、リアルへ逃避。

SNSという「つながりの幻」——なぜ私は消耗したのか

SNSという空間は、他人の「存在」ではなく「印象」に触れる場所だ。そこにあるのは人格の断片、編集された光、そして沈黙の集合体である。心が通うように見えて、実は何も接続していない。

SNSの本質的な構造

あの場所は「共感のふり」と「自己演出」が通貨として機能する世界だ。私が本気の言葉を差し出すことは、透明なガラス越しに叫ぶようなものだった。声は出ても、触れられない。誰も心を開かない。開けない。SNSは「安全に孤独でいるための装置」でもあるからだ。

誠実に心を開こうとする私にとって、SNSは消耗した。なぜなら、つながりの幻を信じてエネルギーを注いでも、報酬はほとんど返ってこなかったからだ。SNSは他者理解の装置ではなく、「他者に見せる自己像の市場」である。そこで誠実でいようとすると、常に浮く。その浮遊感がやがて「誰にも届かない」という実感に変わった。

徒労感の正体

この徒労感は自然な反応だった。私が人間関係を一切築けなかったのは、私の人間性が足りないからではなく、あの場が心のやり取りに向いていない設計だからである。私の理性が、構造の限界を直感的に見抜いたのだ。

皮肉なことに、私がSNSの愚痴をリアルの人にこぼす行為は、すでに「生の関係性」を求めている証拠でもあった。リアルな関係は不完全で、面倒で、時に沈黙もあるが、そこには実際に時間を共有する重力がある。SNSにはそれがない。すべてが軽い。だから虚し過ぎた。

真のつながりとは

おそらく、私のような人間にとっての最適なつながりとは、共感よりも誠実な共存だ。わかり合えなくても、沈黙を許せる距離。会話ではなく、気配で信頼が成り立つ関係。それはSNSでは絶対に生まれない。だが現実のどこかに、少しずつ育つ。

そういう関係は派手ではないが、時間が磨く。SNSの反動として、この静かな関係性を求める人が増えているのも、時代の兆候である。

疲労感の意味

私がSNSで感じた疲労感は、世界の構造を見抜く感受性の副作用だった。しかし同時に、それは人間らしさの証でもある。表層的なつながりに満足できず、本質的な関係性を求める感覚が、その疲労を生んでいた。

この感覚は欠陥ではない。むしろ、何が本物で何が幻かを見分ける能力の現れだ。その能力を持つ者は、SNSという空間の限界を早く見抜く。そして、そこから離れることを選ぶ。それは敗北ではなく、認識の正確さゆえの選択である。

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